アメリカenjoy生活2 -2ページ目

アメリカenjoy生活2

      やる時はやる!  食べる時は食べる!  休む時は休む!  常に最高の準備を心掛ける! 全ての成功はそこから始まる!  Yoshitaka

過去、下記の記事を投稿した。あれから1年3ヶ月、ニューヨークではほとんどのコロナ対策規制を撤廃するという御触れが出た。まだまだ動きづらいことはあるだろうがやっと普段に戻れる。ストレスを受け、脳も狂った。今後は昔みたいに出来なかったことを積極的にやろうと思う。

Dream'in!!

 

過去記事: 新型●●ナウィルスについて思うこと(備忘録3/11/2020)

 

自分自身にとってはハリケーンサンディ以上の災害(?)が今回の新型ウィルス騒ぎである。サンディの時の話は過去ブログで掲載しているはずだ(随分前)。

 

 

 

・マスク

一部の書き込みで「マスクは感染防止効果はない」と言うニュースやツイートがあった。個人的には買い占め防止のために苦し紛れの嘘が広がったのだと考える。「信じるものは自分で決める」今も昔も同じだ。自分の考えは変わらない。マスクが効果ないならドクターは何故マスクをしているのか?政府が法律まで作ってマスクを確保しようとしているのは何故か。先人達の知恵の結果が現代の医学だ。これが根底からひっくり返ることは稀だ。それに、手洗いうがい、そんな小舟じゃこの大波は乗り越えられないと思う。せめて潜水艦を用意しなきゃ。防護服を着ても感染する人だっているんだから。

 

・感染拡大

ウィルスは実は元々昨年以前よりあったのだと思う。発覚したのが遅かっただけ。ドクターでもわからないものが一般レベルでわかるはずがない。やっとウィルスが人間により見つかった頃が最近ということ。少なからず感染者は近くにいる。検査していないだけ、特定されていないだけである。だから俺は準備する。船には航海士が必要だ。

 

・インフルエンザって?

皆、Fluショット打ってるのにこんなにも感染する理由は2つくらいかな。

①インフルBは新型ウィルスと症状が近いと言う。ドクターも検査キットも無く、お手上げと言う。ドクターズノートもサインしてくれない。「インフルか新型かドクターが判別出来なかっただけで新型ウィルスだったんじゃないのか」この話は2ヶ月前からあるということを忘れてはならない。

②インフルの予防接種、本当に効き目あるの!?本当は無理やりウィルスを身体に入れて病原体への抗体弱くしてるのではないか、っていうこと。これは誰もわからない。これも結局信じるものは自分で決める他ない。

 

・政府は何か隠してる

嘘をつくやつらの態度はわかる。暴動が起こるレベルの感染者数がいることはわかってる。いつまでも発表しない政府、暴動が起きていないからいいけど、早くワクチン作れるような政策始めてくれ。あとどうしようもない老害達、頼むから退いてくれ。あなた達の思考や行動力では船が沈没してしまう。封じ込めでも何でもやるなら今。3ヶ月後には全学校閉鎖になりませんように。

 

暖かくなればウィルスは無くなるって言ってた人ら、頼むからニュース見て現実を見てくれ。ここニューヨーク、ニュージャージーはまだ寒いからウィルスがある?いやいや、日本の暖かい地域でもウィルスは拡大してるでしょう。

 

役職レベルの人間がそういう思考じゃ船はミホークにぶった斬られるから。

 

私は2月頭にインフルエンザが拡大した時、周囲の異変を感じて以下の物を購入した。

◯使い捨てマスク100枚入り2箱(日本の家族に郵送)

◯水500ml96本

 

2月中旬、マスクを追加購入しようとしたら既に転売ヤーに買い占められたので以下の物を購入。

◯ガスマスク

当時は買ったことを馬鹿にされたが自分では予防のため何の恥じらいもなく買ったつもりである。現在売り切れ中。

 

2月下旬、日本のニュースを参考に以下の物を購入。

◯缶詰100ドル分

◯アルコールスプレー2ダース(現在売り切れ中)

◯バスケットボールゴーグル2個(目からでも感染するという研究成果を出したドクターがいたため)

◯トイレットペーパー2箱

 

3月頭、感染拡大が夏までおさまらないことを念頭に置き以下の物を購入。

◯洗えるマスク12人前(周囲に配る用も考え)

 

購入予定

◯使い捨て手袋

 

 

そして全く話は変わって今日3月11日、日本人にとっては忘れられない日だ。

 

そう東北の大震災。津波。

 

私は当時ニュージャージーに住んでいた(今も)。ニュージャージーでも毎日"death wave in japan"と一面の記事だった。

 

3・11、その数ヶ月後に日本に飛び、封鎖された道に特別に許可をもらって復興支援の一貫としてノーギャラで縄跳びパフォーマンスをしに現地に向かった。ショッピングモールも傾いていた。信号は常に「黒」。

まず腐敗臭で逃げ場がない。廃墟と化した街を実際に見、ライフラインの途絶えた生の生活を聞き、その時、心は感じたことのない恐ろしさというボディブローを喰らい、生きる準備は万全以上にするべきだと学習した。

 

自分の身は自分で守ろう。

 

 

 

 

・選手村、そしてその後の海外での思い出

過去に世界選手権に出場したときの話。初めてではなかったが異質な文化を2週間浴びまくった結果、その後の人生を変えるほどの経験であったと日本帰国後に気づく。そしてその後、そんな話。

 

場所はオーストラリア、ゴールドコースト。沖縄や伊豆とは全く異質の海岸地帯だ。ウミガメもよく出るという。私の当時のおめでたい頭では、オーストラリアは、名前は知っていたがどんな国かはよくわかっていなかった。その辺の木にコアラが登っている。写真を撮る我々だが、ニューヨークに無限にいるリスを写真撮っているようなものなのだろう。現地の人はコアラを見もしない。そして事実コアラは人間がゲップするように吠え、かなり臭いのであった。

 

さて、当時私は事務所に所属する傍ら、ダブルダッチの普及活動を続けていた。ショーがない日は仕事用の練習と大会用の練習が重なるわけだ。普通に就職している人間が仕事している時間、私は練習や稽古通いに時間を費やすのだ。時には仕事を貰うために挨拶回りもした。もちろん練習では給料は出ない。当時は身体への負担なぞ考えずにクルクル空中を周り、重力に逆らう技の習得に励んでいた。カロリー消費は成人男性の倍以上はあったと思う。5食食べても腹が減っていた。後輩は自分より上手でついていくのに必死だった。昼近くまで寝て、起きて1:00から練習。その後別の練習。またまた移動し、練習。休みの日にはスタジオに通いまた身体を動かす。スポーツの世界とエンタメの世界の両方を極めるつもりで動いていた。常に身体のどこかは筋肉痛だった。

 

日本選手団は遅めに到着だったようで、各国の選手は既にリラックスし、休んでいた。海岸沿いの宿泊施設&会場一帯全て貸切となっており、他の国の選手との部屋はベランダやウッドデッキで繋がっているような状況だった。とある国の選手たちは上半身裸でウッドデッキで寝ている。全く恥じらいはないようだ。皆フレンドリーに接してくれる。

我々は練習をやるだけやってきたのである程度の余裕があった。だから遊んだ。余裕がないメンバーはすぐに練習を始めていた。

 

夜、ちょうどいい温度だったので日本メンバーで外で飲んでいたら、元々知り合いのベルギー選手らがやってきた。彼らの隣国の友人らも連れてきた。カナダ、中国、ハンガリー他数カ国での国際交流会が数時間行われた。言葉の壁など関係なかった。一つのもので繋がっている仲間は国籍が違くても分かり合えるものがあった。くだらないゲームをしたり、それぞれの悩みを語り合ったり、、会合は連日行われ、中には今でも連絡を取ったり一緒に旅行するほどの友人もできた。海岸まで10秒というロケーションということもあって、観光よりも海を楽しめた。観光も行ったがもう忘れた。英語はこういった経験の生の会話から少し覚えたようなものだ。

 

大会よりも人と繋がれることが楽しい毎日だった。海外の選手は日本選手のみ持つエンタメ&スポーツ融合型の演技に皆心を奪われ、その後日本まで教わりにくる人々もいた。日本のメンバーの中にはこの後そのエンタメ性を買われ、オリンピック選手や雑技団が多く集まるとある世界的有名エンタメ集団に抜擢された。

当時エンタメ&スポーツを両方同時進行している人はあまりおらず、我々は個人がその辺のオリンピック選手に負けないほどの身体能力を持っていたことに加え、エンタメ特有の「沸かせる力」があったので、当時は先駆者として引っ張りだこだった。スポーツの壁を超えて教え回った。安いギャラだったが。。とあるオリンピック選手やジャニーズにも何度もコーチとして教えにいった。このときのメンバーは今も世界でバラバラとなり色々な団体に所属して活動しているのも私の誇りである。

 

 

この後、カナダの大型カジノの巨大ホールで演技ショーをすることになるのだが、我々の目的は「スタンディングオーベーション」だった。これは夢だった。文化的なところもあるのだが、日本で観客総立ちで拍手される経験はまだなく、客がわけば沸くほど演技者冥利に尽きるといったところか、この瞬間のためにやっているんだと実感するのだ。何かもらえるわけではないので、こんなことのために、って思う人もいるかもしれない。でも、当時は達成したら次に何かが見える気がしていた。アバウトな話ばかりだが、エンタメ系の人はこう言う考えの人も多い。

 

演技構成はもとより、BGM作成も何度も朝まで曲作りだった。辛かったが完成に近づくにつれ成功する実感が増えていた。当時のメンバーはみんな0か100かの連中ばかりで成功するまで永遠にやり続ける。それこそ大雨が降ってきても関係無いのであった。時には後輩と激しいバトルをした。向いている方向は同じなのだが衝突はよくあることだ。そしてショーは完成してカナダへ。

 

人生最大に力を尽くしたショーは大成功であった。ステージ前の廊下での待ち時間が長かった。ショー後カジノの客はなんと総立ち、なんとスタンディングオーベーションだった。客が全員立つと会場が揺れると言うのは本当だった。ただ、感動した。ラストは客の歓声で演技BGMが聞こえなっていたのでミスったかもしれない。子供の時以来の夢中さだった。間違いなくここが人生のターニングポイントだった。

演技退場後、客からの賞賛の嵐だった。普通に泣いた。恥じらいは全くなかった。小さな子がThank you!と声をかけにきてくれたこと、爺さんがYou are best!と背中を何回も叩きながら言ってくれたこと、忘れていない。その日の宴は最高だった。

 

会場には世界一有名なシルクドソレイユのスカウトマンがおり、演技後に、「I’ve never seen like you! I’m finding like you guys!」と勧誘された。連絡先まで聞かれ、何度も何度もEmailがきた。この数年後、みんな別れ、私はアメリカに、メンバーのうち何名かは実際に世界的有名エンタメ集団のアクターとなったのだ。

 

選手村や海外でのショーでの出来事は今でもいい思い出だ。早くまともに旅行できるようになってほしいところですね。

 

 

Enjoy!

加藤義隆

 

アメリカ横断中の話にあった危険な話

アメリカ横断をした時、危険だと思った話をいくつか。普通に旅行していたらこれは経験しないだろうな、というところ。

 

①メリーランド州。ガソリン欲しく、スタンドへ。子どもがスタンドで思い切り殴られており、衝撃で斜め上から降ってきて、私の車のボンネットに落下。そのまま追撃されるかと思いきゃ、その子は反撃に出て殴り返していたのだった。あっという間の出来事であった。学校行け!スタンドのおっさんはキレており、優勢の方の兄ちゃんの頭を掴んで、スタンドの外に投げ飛ばしている。勝者はスタンドのおっちゃんであった。

 

②ジョージア州の危険地帯の安宿。明らかなアウェイ感、安宿の客は何故かみんなドアの外に出ており、私を見ている。こいつら俺から金奪おうとしているのか?と感じる。とりあえず臨戦体制になりつつも、彼らはあくびして暇そうだ。部屋に入ってわかった。暑い。とても中にはいられる温度じゃない。安いがゆえ、仕方がないか。他の客の中に私の車の中を5センチの距離で凝視している野郎が‘いた。“HEY, Dont touch, sir’’と牽制しておいたが、持ち主を目の前にして、何か盗もうとしていたのだろうか。だとしたらアホだ。朝飯がついていると部屋に紙が貼ってあった。受付にどこに行けばいいのか?と聞くと、’’this’’と受付カウンターのタッパーに入った古そうなシリアル。ありえん。紙を貼るほどのモノじゃーない。コーヒーやミルクはないし、食べずに去った。

 

③シカゴのとある駅にて。電車に乗っていたら、電車が故障し、次の予定まで時間的に厳しく、タクシーを拾うことに。他の客もタクシーに急ぐ。運よく並ばずにタクシーに乗ったが、私が‘乗っているにもかかわらず見知らぬ女がタクシーに乗ってきた。“行き先同じでしょ?割り勘しよ“と。怪しそうな人ではなかったので別にどっちでも良かったが、運転手がキレだし、車を停め、ドアから出て女性側のドアを開けた瞬間女性を思い切り引っ張って、引きずり下ろしたのだ。強引に。「この車は俺がルールだ!逆らうな!」と言いながら、目的地に向かった。その後の車内では、運転手が、この辺りは治安が悪いからオカシイ客が多いんだ、と何度も言っている。いや、お前の方がやばいからな。と。この日は次の州に早めに着きたかったが、予想外のアクシデントで次の州に着いたのは夜中0時を‘回っていた。

 

④ネバダ州にて。これはまずかった。前方に物凄い大きなサイクロンが見えるのだ。(写真が見つかったら後でアップします)信号で、隣の車から「あれ、くらったら車壊れるよ、ハッハッハ!」とおっちゃん。冗談じゃない。こんな真っ赤な荒野で車動かなくなったらおっ死ぬ。気温は45度くらい。とりあえず他の車を追うように南に逃げやり過ごし、いや正確には1時間ほどの大きな嵐を食らったが、、。その後、目的地に向かうと惨劇であった。木々が倒れ、信号は道に転がっている。木や葉っぱのせいでまともにスピードが出せず、ずいぶん時間がかかったが、目的地に着いた夜のTVを見たらその街のことが報道されており、運転手のおっちゃんのいうことは本当だったと思い知った。たまたま窓開けてて、たまたま言う事聞いておいて良かった。散らばっている木のせいでタイヤがLow pressureとなり、その後1週間以上そのタイヤのままで運転することになった。

長距離するならでかいタイヤは必須!

 

これらに共通しているのは安宿や宿に向かう途中であるということ。みなさん安宿にはお気をつけて!

 

Yoshitaka

地方巡業(当時の記憶を頼りに少し現在形で表現しております)

 

今回は場所の特定が容易ですし、現在は状況が変わっているので行き先は○○県とあやふやにします。

 

朝一新幹線→鈍行→超鈍行を繰り返して、とある無人駅に到着しました。超鈍行への待ち時間が長く夕方になりそうです。

 

その後、宿に到着します。移動で疲れました。到着後、いきなり宿の女将から早めの夕食を用意してくれています。食欲旺盛な年代でしたので直ぐに平らげました。

 

そこで部屋に戻るのですが、メンバーがとある事に気づきます。

「電灯のスイッチがないんだけど」

 

 

「いやいや、これから暗くなるからつけようよ」

 

 

「ないもん」

 

「どゆこと?」

 

と皆で部屋中のスイッチ探すも、スイッチはありません。

 

 

というか、電灯がありません!

 

女将が声を聞いたのか「手持ち使ってね」ということで、この宿は電気が無いようなのです。

 

 

手持ちのライトは沢山常備されていました。お風呂は陽が落ちる前に入る必要がありそうです。

 

こういった宿泊施設があることに、自分には知らないことがまだまだあると認識させる経験となりました。

 

女将に話を聞くと「この辺りで電気があるのは駅周辺だけ」「みんな早く寝ちゃうよ。朝も早いよ」とのこと。そりゃそうだろうな、と。

ここはとある村。電気が無いのです。

そんな村から声がかかることに感謝!

 

加藤よしたか

 

 

・超有名、超大物、超危険人物、と飲んだ話。

 

とあるNYのイベントで出演しているあとあるアーティスト、たまたま知り合いが友人で、電話した。

 

イベント中なのに電話で酔ってるご様子、まぁB系だし普通ではある、

 

イベント中なのに、今こい!と裏のセキュリティに囲まれたロケバス内に呼ばれ、私まで監禁状態。

 

 

ロケバス入る前に強めのボディチェックを2度もされ、自分の倍程体重のある人々に囲まれて絡まれる我々。ゲストパスをもらった。

 

物凄い美人モデルみたいな女もいる。肝心の友人の友人はメインボーカルなのでまだ来ない。

 

よくわからない透明な液体を渡される。あきらかにテキーラだ。思い切り飲んだフリをしたが、実は少ししか飲まなかった。

 

テキーラビン飲みはヤバイ。あきらかにやばそうな雰囲気だ。みんな酔ってる。

 

この人らどんなテンションだ?と適当に話をあわしているうちに友人の友人がショーの合間に戻ってきた。

 

明らかに超有名な○○さんだった。

 

いきなり上を脱ぎ出した。

 

脱いだからではなく、これは凄い経験をしている、と興奮した。

 

でも場違い感半端なかった。

 

少し一緒に飲み、「もう終わるから後でSOHO近くのホテル来い」みたいな話になった。

 

 

内心、もう帰りたかったけど、選択肢はなかった。

 

 

ホテルにつき、マネージャーみたいなカクテルガール風の美人が出てきて案内された。ロケバスにいた人だ。

 

広ーいスイートルームだ。夜中にもかかわらず、大量のピザと酒があった。

 

数名おり、ピザがゴミのように投げられたり地面に落ちていたりする。

 

酒ゴミもすごい。

 

明らかに住む世界が違った。自分の好きなノリじゃない。

 

我々は酒がまぁまぁ強い方だったので、「飲む奴は友達だ」みたいなよくわからない仲間意識が芽生え、時を過ごした。

 

会話はあまり覚えていないが、人種の話、日本の話、寿司の話、とにかく同じ話を数時間かけて何度もした。

 

ただの酔っ払いだ。

 

あの時は何だったんだろう。

 

いや、なんだったのだろう。

 

今思い返しても、本当に何だったんだろうとしか思えない。

 

確実なのはホテルの掃除する人が大変だったことくらいだろう。

 

人は有名だろうがなんだろうが酒が入ったら無礼講。対等の酔っ払いだ。

 

加藤義隆

とある○○ライダーショーと共演した時の話。

 

 

共演者である○○ライダーさん役の人達から興味深い話を聞きましたので、シェアします。

 

 

彼らは日本全国にマニア達の支部があり、本物のライダー本部よりショーの委託がされるようです。

 

 

例えば地方の小さいイベントには適当な下っ端マニアがやりがい商売派遣される。

中規模なショッピングモールのようなショーではマニアの中でも多少本格的にできる方を集めてショーを行う。

大規模な本腰を入れたライダーショーは本格派のアクション俳優さんが物凄いアクロバットでショーを繰り広げるのです。

 

どのイベントもMCだけは本部からしっかりしたお姉さんがきていました。

 

 

ここからは下っ端の彼らに対して失礼な話ではあるのですが、一緒に共演した下っ端マニアのショーがあまりにも酷かったのです。

 

 

ライダーなのにすぐ疲れてしまい、もう動けないのです。怪獣役の中身の人もへばっており、子どもから笑われるレベル。録音音声に身体がついていっていません。でも子供はライダーがいるだけで大喜び。

 

 

前転や側転すらできません。疲れすぎたのか、ステージから落ちてしまい、何とかごまかしながら退場してきました。

 

本体はメガネでお太りになられた中年の方で、私、失礼ながら見えないところで後輩と爆笑してました!

 

急遽、時間稼ぎにダブルダッチショーを追加されたことを覚えています。

 

 

別の仕事で、

大きなショーで本物のアクション俳優さんと共演した時はまるっきり違う動きに驚かされました。お互いのアクロ技を教え合った事を覚えています。

 

あの衣装、重いんですよ。そりゃ素人にあれ着て体操は無理ですね。必死になるわけです。

 

大事なのは見かけより中身ですね〜

 

加藤義隆

 

某ファッションショー出演

とある大きな会場にて、とあるファッションショーに出演した時の話です。事務所に所属していた時も、事務所を引退した後も何回かやりました。

 

誰もが簡単に想像できる、イケてる服着て歩くアレです。

 

トップモデルさんはギャラが有り得ない程に高いので私のような安いギャラで済む前座が雇われるわけです。

 

さらに言うと、有名プロダクションだと下っ端でもギャラがたかいので予算が厳しいイベントでは個人で安く雇われる方が多く、こういう出番があるのです。ダンスやってる人が多かったですね。アピール力ありますしね。

 

別の仲間は跳びながら出演できたそうですが、私はステージの中央でなく横の方、服を着て出発してから15秒程で戻って、次のスポンサーの服を急いで着てまた15秒の繰り返し。

 

もはやモデル歩きなど程遠く、ひきつったスマイルでミッキーのような小走りでごまかす連続です。

 

何度か下っ端で出演させていただきましたが、まず音が大きすぎて周りで何言ってるか何も聞こえないんです。

 

手順をしっかり覚えとかないとプロのアンカーモデルに迷惑がかかります。

 

そして、男も女も関係なく同じ場所で裸になって急いでステージに向かいます。

 

 

一番大変そうなのは着替えさせる役のメイクさん達。それぞれ誰に何を着させるかを把握しており、彼女達無しにはステージには向かえません。

 

メインのモデルさんは持ち時間が長いのでゆっくり歩いて偉そうにポーズなんかしています。

 

 

自分なんかファッションショーに遠い人間で、ブランドなんか知りませんし興味はあるけど人並み以下です。

 

何を着ているのかもわかりませんし、着方がわからない服を着れていないのに無理やり腕で押さえて走って出たこともありました。

 

 

華やかに聞こえるけれど裏側はぐちゃぐちゃだったお話でした。

 

加藤義隆

地方巡業の話

 

ダブルダッチお仕事兼普及活動で、数年かけ全都道府県を巡業した話です。どちらかというと苦労話寄りです。

 

最初の遠征話は岩手です。

寝台列車で半日以上かけ向かいました。ギャラが安い仕事は必然として交通費を抑えるため寝台列車や陸路となります。

ここ岩手は大変でした。何せ、到着してから1日で7つの学校を周りショーをしたからです。まず、専属タクシーが駅に待機しておりそのまま町長にお会いして挨拶です。ここで問題が起こりました。彼が何を言っているのか全くわからなかったのです。ついでに彼はTシャツ短パンでした。冗談とかではなく、全く言葉がわからんのです。英語を聞いている方がわかるぐらいと言えばわかりやすいでしょうか。これは失礼な話とはなるでしょうが、ツアーに同行してくれた運転手さんが「あの人は私も何を言っているかわからないから気にしないで」と後に少し通訳をしてくれたので、気持ちが楽になったのをおぼえています。

 

さて、ショーは演技&指導&体験でパッケージとなっておりギャラは基本的に30万円が基本です。交通費別か含まれているかが随分大きなことで、企業の経費の持ち用でこちらの対応も変わります。今回の岩手の仕事は周辺学校全ての予算を全てかき集めて我々に依頼をしたとのことです。30万、これが高いと思うか安いと思うかは人それぞれです。パフォーマーは練習にかける時間が圧倒的に多いので、私は格安だと思います。もちろんその練習分も入っていますからね。これが経歴や大会での入賞歴が増えればギャラも当然釣り上がるわけです。私達は世界選手権優勝者もいましたが当時は普及活動も兼ねていたのでギャラが安くとも一軍メンバーで臨んでいました。サービス期間ってやつです。

 

1つ目の学校でのショーはやはり時間的余裕がなく、マイクで挨拶しながら送迎の車に既に乗っていたほどです。子供らは大満足でした。ショーはマイクパフォーマンスの重要性が大きいです。どのように盛り上げるかMCも演技するわけです。たまにプロのMCに同行を依頼することがあります。

 

運転手さんの荒業で次の学校にはあっという間に到着です。既に児童は体育館で全員体育座りで待機しています。改めてしっかり待つことのできる日本人は素晴らしいですね。

通常ならステージ裏に隠れて、ミュージックスタートと共に演技がいきなり開始となる想定だったのですが、車から降りて体育館にはいる所をモロに見られているので少しこっぱずかしかったですね。ここも無事終了。

あれよあれよという間に最後の学校です。もう汗だくです。

何とここでびっくりしたのが、7つ目の学校に着いたら、最初に行った時の3校位の子供たちが勢揃いしています。子どもらは強烈にアピールしていました。元々広い学校だったのでそのつもりだったのでしょう。聞けば、こういうヒーローが登場系イベントは子供に大人気で、大人は子ども達の為に準備をして、イベント終了したら別の学校に町のバス総出で向かってくれていたようです。企画した方、大変だったと思います。

 

最後の学校でショー終了。そこで熱いメッセージを受け取り終了バイバイするわけですが、子ども達の興奮は覚めず、タクシーを走って追いかけてきます。ドラマのようですが地方に行くと泣く子もいるほどです。次の年また同じところに依頼されて戻ってくると大量の手紙をもらえたりします。感動すると同時に子ども達のものすごいパワーをもらえた気がしました。ちなみに町長のTシャツをもらいました。

都会の子と比べると地方の子の反応はいつもとても新鮮です。

この時点でもう夕方です。当然鈍行で東京まで行ける電車はありません。寝台列車は少し起き上がると頭が天井にぶつかるほどの高さです。我々は旅を楽しむ為、眠くてもいつも騒いでしまいますがこの日は撃沈でした。

いつも地方に巡業するときは名産品のご飯を食べたりしますがこの日は不可能でした。文字通りとんぼ返りですね。

 

加藤義隆

 

 

ベルファーレ出演の思い出

 

当時、私はクソガキだった。いや、今も何も変わっていない。昔のことを思い出すと当時大切にしていた気持ちや信念が甦る。より深く、いつでも思い返せるようにあの時のことを思い出そう。

 

ショーには毎週のように出演するようになった頃、プライベートでも横浜や渋谷のクラブに何度も出向いた。出向いた理由は純粋に上限の無いエンターテイメントを見たいからだ。フロアーには突然大物が踊り出したり、彼等と同じ土俵に入ることもでき、日々の行動を一瞬で変化させる魅力があの場所にはあった。当時クラブはクラブ全盛期と言っても過言ではなく、数時間並んで入場する事もザラだった。自分が出演しないイベントでも通うようになった。別に入り浸っていたわけではない。適当にサークルバトルで踊リ、適当に飲んでショーに目を凝らしていた。クラブと言えば女遊びかと思われがちだが、当時の自分はパフォーマンスばかりに心を奪われ、恋愛沙汰や遊びはからきしダメだった。友人は女性に声をかけていたが自分には無理だった。多分ガキ過ぎた。苦手だった。勇気があれば今頃結婚ぐらいは出来ているのだろう。その時は女遊びよりも下手なりにダンスバトルにハマっていた。センスはないがまるでゲームにハマる子供のように。

 

夜の世界に足を踏み入れたはいいが当時は金もなかった。いや、目的のために使えなかったとでも言っておこう。あまりの金のなさに、飲み屋ではオトウシを断り、水は公園に行って水道水を大量に持ち込み、氷も断り、一番安い酒を飲んでいた。随分飲んでも数百円だった。酷い客だ。ツテで売れないホストクラブにも行き、一気飲み対決で勝ったら安くしてくれと道場破りのようなこともやった。

 

スタジオに通い、踊り仲間も少し増えた。簡単にいうと私は踊りを自分のパフォーマンスに取り入れることで格好つけたかったのだ。そういうスタイルは当時あまりなかったし、確実に先駆者でやっているという自信があった。後輩らは自分たちを見ていたし、創り上げていくことも楽しかった。

 

夜には様々な駅で練習し、上手なダンサーにはバトルでコテンパンにやられた。それもそのはず。彼らはTVに出る程の強者だった。負けた、でも楽しかった。あまりにも勝てない人にはアクロバット技で逃げるように発狂し戦った。時には朝まで練習していた。みんないつか大きな舞台に出たいという野心を持ったダンサーばかりだった。切磋琢磨し、語り合った。これより数年後に彼らとは全く別の舞台で再開することになるとはこの時は夢にも思わな買った。その話は機会があればしようと思う。

この時点で私は「ああゆう技ができるようになりたい、こういう技がやってみたい」ということばかりが頭にあり、他のことはそっちのけだ。年単位の時間で。わかりやすく言うと一つの技ができるようになるまでは気が済まないのだ。一般周囲から見たらなんでそんなことにずっと時間を費やせるのかと思われる程に。

ルールのあるスポーツの世界での結果よりも、ルールのない世界で、一番の舞台でパフォーマンスがしたいと、その結果、その場にいる誰よりも大きな歓声が欲しい。今思うとなんでこの時そのようなことに向かっていたのだろうと。。でも人のアイディアには限界がなく、体の動くうちは追求したかった。ダンス映画やプロの演技のビデオは軽く100回以上再生した。ずっと身体を動かしていたおかげで今は同い年の人らとは比べ見かけも若く、雲泥の差があるほど身体だけは動く。身体だけはね。頭の中身は。。。

 

時は過ぎ、私はクラブの大トリゲストショーができるほどその世界にどっぷりつかっていた。渋谷なんかもう行きたくなくなるほど通っていた。練習も渋谷、飲みも渋谷、ラーメンも渋谷。仕事はゲストショーだけしてフリードリンク飲んで次のクラブか飲みへ行くような生活。踊るフロアーもないような場所ではすぐに切り上げて他の大物の出演するイベントにも行ったものだ。

練習は大変だった。でも見返りに大きいイベントにも出演出来、そこでは芸能人や超有名なダンサー、今では超有名動画配信者の方ともご一緒させていただいた。客には普通に芸能人も来ているのだ。当然VIPルーム。フロアーで普通にブレイクダンスしている有名人。私もゲストだからVIPルーム。みんな化粧してる。控室では普通に会話くらいはできるが、私は相手が女性だと緊張してあういうのはダメだった。

先に言っておくと、私はこの時既に私は半分芸能の世界で生きるようになっており、地方巡業、TVやステージパフォーマンスしてギャラをもらう生活をしていた。数人での演目、ピン、又は色々なチーム、コメンテーター、ジャッジ飲みなど色々経験させてもらった。時には大金、時にはやりがい商売値段で安定はしない仕事だ。私の専門はアレなのだが、ダンスだけで出演させていただいたこともある。心の底から楽しかった。何故かシンガーとして歌オンリーでの出演、チアガールとのコラボショーで使えないチアダンサーまがいでの出演もあった。専門のショーではない時は舞台までの練習が一番緊張した。売れない間はどんな仕事でもしなきゃ次の仕事はもらえないということだ。

 

大きな舞台ではステージの上での気持ちの高ぶり、自分は今恥をかくかもしれないところで輝こうとしている、そんな感情が交錯し、数分という短い時間の間続いた。数分だが一瞬で終わった。楽しいことはすぐ時間が過ぎてしまう、でも毎回この感情が病みつきだった。

そんな時、突如、「ベルファーレの1部トリやってきて」と物凄い依頼がきた。2部のトリは芸能人。名前は言えません。でもみんなその人が目当てで来ていたのだろう。ベルファーレとは当時渋谷のONEAST、横浜HEAVENとは比べ物にならないくらい豪華なavex 経営のクラブだ。まさか自分がこの舞台で跳べるとは思っていなかった。自分のショーはベルファーレの雰囲気とは異質だし、客は日本人でない方が多かったし勝手な感覚でお呼びではない感が元々あった。でも、はっきり言って憧れていた。キラキラしているこの場所に。男なのにおかしいかも知れないが、ここでショーができたら何かが変われる予感がしていた。エンタメ界隈では同じように思う人は結構いるらしい。あそこのステージには恐らく魔物や天使が確実に住んでいたのだろう。ベルファーレのステージはアポロシアターと同じゾクゾクがあったのだ。アポロについてはいつか別記事にて思い出そう。

ベルファーレは凄まじい客入りで、演技中は飲まれそうで無我夢中だった。上手くいったかどうかなんてずっとわからない。酔っ払っているような感じだ。嬉しくてどうでもよかった。歓声が凄すぎでBGMが聞こえないことが良くある。ここもそうだった。とりあえずは楽しめた。夢はまだ見ぬスタンディングオーベーション!

そう、この時は楽しもうと思わなくても勝手に楽しんでいた、それが今と違うのだ。今はそれが課題か。でもガチガチに真面目に考えていたらステージを楽しむどころか亀になってしまう。人生で大人になってから無我夢中になれたのは数えられるほどだ。アメリカに移った後でもなかなか体験できるものではなかった。その日の感情がどうだった、その後自分がどう変わったかはわからない。でもあそこに立てたことで増えた進路もあるのだろうと思う。二度とこないあの日々を忘れない為に。そして今、楽しむということを再確認させてくれたあの時のメンバーに感謝!

 

数年ぶり投稿かな??

加藤 義隆

久しぶり過ぎる投稿です。

私は「公平」と「平和」をスローガンにしているオリンピックが大好きです。但し、それは公平に競技、judgeできるという条件で、です。何事もあからさまに公平で無いことに関しては徐々に淘汰される時代です。このままでは無理に選手を渡航させ、不幸を呼ぶオリンピックかはたまた中止か。半年前から中止と言い続けてきましたが今回はそんなスポーツの功罪を含めたオリンピック中止決定濃厚のお話です。


個人的にはオリンピックだけではなく、様々なスポーツの公式大会においては公平に審査、募集できないなら滅んだ方がいいと思っています。コロナの件でオリンピックを餌にしてきた企業の撤退や倒産が相次いでいますが、今後もコロナ状況が長引く事は明白ですので、そこにお金を投じる企業は少ないでしょう。

コロナが長引くという理由は以下です。
①ワクチンができない
そもそも他の感染症のワクチンすら完成されていないのに、どうやってコロナのワクチンが直ぐに完成できるのでしょうか。かなり以前のブログでも書きましたが、私は医療関係者ではありませんが、わかることもあります。
まず100%治る薬なんてこの世には無いこと。そして現状、博打的に摂取を行い、後遺症が残るという可能性を恐れている人が明らかに多く、ワクチン摂取可能になっても様子見を行う人々が大多数であるだろうということ。(何か摂取しないと死ぬという状況を除いて)
それは数年続くだろうということ。アメリカではワクチン摂取ができるようになっても46%の人が拒否すると回答したそうです。子どもに摂取させない親を含めたらさらに多くの結果となるでしょう。生死に関わることですから。ところで、治験には2-3年かけるのが通常らしいです。どうやってそこ短縮できるのでしょう?

②ワクチンが供給されない
日本はワクチンを他の国から買い付ける立場です。供給されるには時間がかかり、オリンピック開始までには間に合う見込みすらありません。例えば今、ワクチンが流通されたとしても国内でのルール制定に時間がかかるでしょう。10万円とマスク配るのにあそこまで時間がかかったわけですから。選抜の有無によって開催よりもだいぶ前の段階でクリアされていないと「公平」になりませんし。余談ですが、製薬会社はワクチンの研究が後退しても世間に発表しません。株価落ちますからね。でもこの前治験で脊髄不随となった報道がありましたよね、あれは恐怖でしかありません。

③経済再開
究極ですが、自分にはナイトライフをしまくってコロナで死ぬか、経済再開中に感染して死ぬか、自粛し職を失い死ぬか、という選択肢を考えました。
職も自粛するだけでは結果的になくなるし、遊んで感染はアホ過ぎです。全力で再開に向け動き、プライベートでは様々なことを遮断しなるべく自粛、というのが自分の出した結論です。これには否定する人も多いですが、自分で出した結論です。生きようが、感染して死のうが本望です。それでは甘い!と言われることもあります。徹底している人の話や行動に敬意を払い、参考にさせて頂いております。逆に何も考えていない人や考えが足りない人の行動に関しては容赦なく通報ですかね。他人への危険が増す以上、制裁された方がその人と周りの為だと本気で考えるようになりました。
経済再開には様々な意見がありますが、富豪除いては再開させないと生きていけなくなる人が多いと考えています。本当に自粛したい人は仕事を辞めればいい、自宅でできる仕事をすればいいとも思います。経済再開したからには感染する確率は少なからず上がるわけです。今後、奇跡的にコロナが消えない限り、生きるために人々は外に出て、最小限に留めながらも感染は続いて行くのでしょう。富豪になったら地下20階のシェルターでも作ります。


日本人は日本にいるからオリンピック開催できるかも、という報道がされ、世界で報道されている内容を知らないのでまだ開催の希望を持っています。

オリンピック中止とされる事を前提に動いている大きな力
①スポンサー撤退
言わずもがな、です。スポーツの祭典を狙って商売しようと企む企業は「スポーツを盛り上げよう」という意思よりも自分たちが倒産しないようにと軌道変化しました。
未だ名を連ねているスポンサーも、実はお金ではなく、物品だけのスポンサーだったり開催に助けとなる金額到達には全く届かないとされています。利益等考えずにオリンピックを支える企業がいないのもスポーツの功罪が生んだ近年のウミです。
更に、放映権のほぼ半分は、オリンピックに対して発言力のかなり大きなアメリカのNBCが持っています。NBCが右といえばオリンピックは右、なのです。放映スケジュールの実験はNBCが握ってきましたが、NBCは中止として保険料収入を貰えばもういいという動きになっているという話です。それは以下の話と繋がります。

②アメリカ
アメリカではオリンピック関連の報道は極端に少ないのです。学校再開時期だからなのか、エレクションの話題優先なのか、またはこれは諦めモードが既に確定しており、いつIOCが中止と発表するのか、という誰もが理解していながら何も言わない状況なのかです。
世界を引っ張っているのはアメリカです。島国の日本や都知事がなんと言おうと、結局アメリカが出場するという決定をしない限り他の国の出場表明はされないでしょう。しかし現大統領が出場を表明すると思いますか?11月までは少なくともされませんよね。IOCの中止決定の10月まで彼は訴えられるような表明ができる状況にありません。出場出来ないなら視聴率見込みのとれないNBCが巨額投資する意味が無くなります。
アメリカが出ないなら競技観ても面白くないなー、と思うのは切磋琢磨した曲面が減ってしまうと考えるからです。


③選手やボランティア集まらない
延期したとしてもボランティアを募集しないのは大きな矛盾ですよね。いや、ボランティアを再募集しないっていうことは??もう結果出ていますよね。
IOCは無観客はあり得ないと言うし。
アメリカでも州外への移動制限もあり、罰則も強力です。家族やコーチから国内の選手の派遣ですら満足にできないわけですから、国外なんて夢のまた夢です。まず訴訟問題とされるでしょう。私自身、スポーツでの大会で州外への渡航をしてきていますが、今は責任問題が大きすぎますし、外からの批判を受け切れる耐久力もありません。今後アメリカだけでなく、他の国でも「渡航中にコロナに感染してもいい」という承諾書を交わさないと何もできない世の中になるでしょう。これは何もスポーツに関する渡航に限ったことではありませんが。

⑤各スポーツ団体の規模縮小、自粛多発中
アメリカ大リーグでは感染拡大に対して試合を中止したり、選手を隔離しています。他の団体でも大規模自粛をほぼ強制されている状況で、もはや練習すらまともに出来ず、選手の選抜どころではないのです。ここでもスポンサーは撤退が相次ぎ、コーチもクビ、結果選手は、、、。ここは本当に辛いところです。
「公平」に練習や選抜もできないのにオリンピックに選手を送ることはできませんよね。


⑥神頼み
日本のオリンピック協会のトップの森さんが、「もはや神頼みしかない」と毎日お祈りしているようです。
これは決定的な中止濃厚なサインですね。
中止と言わないのは税金で賄われている役員の年2400万円の役員報酬が途絶えるからでしょう。中止となったら報酬はそこで途絶えるわけですから。

経済再開はしょうがないとしても①〜⑥全て金銭面が前に出ているわけで、「選手ファースト」、「公平」とはほど遠いのです。今は競技スポーツも小さい大会に出すためにも数万円もの出場費用を要するスポーツ功罪主体の時代です。
そのようなことをしてまでスポーツをやるより生涯スポーツに力を入れる取り組みの方が人々が平和になるのではないでしょうか。
私は今でも存分にスポーツを楽しんでいます。