明け行く空に…。  ~ひねもすひとり?~ -3ページ目

トンネルを抜けるとそこに温水洋一がいた。

サラリーマンと呼ばれる立場に就任して、気がつけば10年の時が経過してしまいました。

まぁ人並みに仕事を覚え、周りの連中に遅れを取ることなく昇進し、上司からの信頼もそこそこの地位に現在身を置いている。

あ、信頼に関しては直接聞いたわけではないので、多分そうじゃねーかな、もしくはそうあって欲しいとの願望……。


そんな平々凡々な現状ではあるのだが、ひとつだけ平凡ではないことがある。

それは、未だオレには部下がいないってこと。


同期の連中と同じように、むしろちょっとだけ加速度をつけて昇進しているにも関わらず、10年間部下と呼べる存在がオレにはいないのだ。

他の部署に配属されているヤツらの下にはもれなく新人が付けられているってのに、オレの下には誰もいねぇ。


おい○○君、ちょっとお茶でも淹れてくれないか。


だとか


係長ぉ~、ちょっと仕事のこととかアレのこととか相談にのって欲しいんですけどぉ~。


なんて言われて


おうおうそうかそうか、それじゃ今日は二人で夜景の見えるレストランがあるあのホテルで、二人だけの夜のミーティングでもしようじゃないか!


なんて同期のヤツらが女子新入社員とドラマのような展開を、下心丸出しで演じているのを横目に、オレは今でも雑務から上司の尻拭いまでをせっせとこなしている。


何なんですかね、この格差は。


そもそも仮にオレが係長という役職だったとしてですよ、一般の係りをまとめる役をこなさなきゃいけないとしてもですね、そんな係長の下には平社員である係りが一人もいないのですから、一体オレは誰のまとめ役として頑張ればいいのか分かりません。

むしろ係りですよ。

上司の昼食の弁当を注文したりする辺りは給食係りだし、毎朝上司の散らかった机を片付けたりする辺りは整理整頓係り。

しまいにゃ上司が旅行に出掛けるからって、ペットの犬を一時預かったりする辺りは生き物係り……。


そんな毎日が罰ゲームのような日常なわけなんです。



ところが!

そんな燻った日々を払拭するかのごとく、今年の春ついにオレの下に部下が配属されることとなった。

イェス!

やったぜイェス!


オレは今や物置と化していた隣の机を必要以上に整頓した。

良かったー、整理整頓係りを独り占めしていて。

これでオレもオフィスラバーの仲間入りだぜってな具合で、間もなくやってくるであろうまだ見ぬ部下の為に彼女の机を一生懸命綺麗にした。


あ、今度くる新人は男だから。


そんな上司の言葉を聞いて、オレは片付けをやめた。

むしろ、オレの溜まった書類をその机の上にドンドコ重ねた……。


まぁいい。

とにかくオレに部下が出来るってだけでも今や驚愕に値する。

これで幾ばくかは仕事が楽になるだろう。




そしてある日の朝。


いつものように気だるく出勤すると、その男はオレがせっせと書類を重ねていた机についていた。

なんだコイツ、つーか誰だよこのおっさん……?


あ、おはようございます。


オレの存在に気付いたおっさんは振り返りいう。

あれ?この人どこかで見たことがあるな。


あ、あれ?温水…さん?温水洋一さんですよねえ?


そういうオレに男は言葉を返す。


いや、温水、ではないですね、むしろ佐々木です。


いやいや、佐々木ではないだろ、温水だし。

その頭、昨晩テレビで見たし。



まぁそんな感じで、長い長いオレの下っ端生活に終止符を打つため、温水はやってきた。

およそ新人とは思えないその風貌は、明らかに見た目オレより上役であるに違いない。


その日、まとまりかけていた先方にとってビックなビジネスになりうる商談の契約にやってきた、取引先の担当者が初めて連れてきた営業マンの上司が、あろうことかオレより先に温水に名刺を差し出し頭を下げたので、オレは間髪いれずに商談を覇気にしてやった。

そしてついでに温水の髪と髪の間も広げてやった。



長い下積み生活というトンネルに終止符を打つためやってきた、温水とオレとの闘いが今幕を開ける……。



そんな感じで。



猫を噛んでみる。

風が吹けばではないけれど、何やら連邦の新型ウイルスのおかげで、マスク業界が震撼しているみたいですね。

得体の知れない病魔の影に一般市民が怯える傍ら、確実にマスク業界の人間はほくそ笑んでいるに違いない。

少なくともオレがその立場なら、邪な腹の内がバレないよう日々縦縞のシャツを身にまといながら不敵な笑みを浮かべるに違いない……。


とにかく、ここぞとばかりにマスクを買い漁る一般人の需要に応えるべく、然るべき業界の末端で働く輩は徹夜で製造作業に追われていることだろう。

がんばってください。人々の健康の為に。

そしてこのチャンスに、売り上げ倍増に精を出してください。


だがしかし、そんな不意な需要に供給が追いつかないってのは世の常で、己の身を守るマスクを手に入れられなかった輩は発狂寸前に追い込まれる。

どうしようどうしよう、手に入れられなかったわ、どうしよう……と。


そんな精神的に追い込まれた人々ってのは、追い込まれたネズミと化す。

そして思いもかけない行動に出てしまうのもうなずける。


とにかくマスクを!

そんな思いで押入れにしまってあったこんなもので代用してしまうだろう。



明け行く空に…。     ~ひねもすひとり?~-マスクド先輩


だよね、これだってマスクだもんね。

会社の上役が


明日からマスク着用を心がけるように!


なんて無茶振りしてきたら、そりゃ被りますよ。


それとアレだね、いつもの店で購入が不可能だったら、とりあえずこれで代用しとこうかって、こんなの買っちゃうかもしれないよね。



明け行く空に…。     ~ひねもすひとり?~



牛丼一筋っていっときながら、豚丼なんか販売しちゃってる辺りがヘドロだよね。



まぁそんな感じで、これから街にはマスクドな輩が蔓延るのは間違いないだろう。


とりあえずオレはマスク手に入らなかったので、明日散髪屋に行ってウォーズマンカットにしてもらおう。




以上。


旅から帰ると、そこは廃墟と化していた。

オレさ、昨日ポニョのDVD予約してきたんだよね。



まぁアレですよ。
昨日仕事が終わった後、ちょっと気になるCDを買おうかと、いやいや買うには懐が寂しいからとりあえず視聴とか出来たらラッキーなんて思いまして、ぶらぶらっと某有名CDショップに足を運んだんですよ。
そしたらね、大々的に宣伝してるんですよね、ポ~ニョポ~ニョってな具体でさ。
しかもよく見ると今なら予約特典として、1000円引きだって言うじゃないですか。
そりゃ予約しますよ。
ちょっとだけ、ちょっとだけみたいなと思っていたあの死んだら国民栄誉賞を受賞してもおかしくは無いおじさんの作品だけに、しかも1000円割引になるって言うんならとりあえず予約するでしょ。なぁ。

そんな感じで職場の女子社員に給湯室でその旨を何気なく話をする。



へぇー、ユキオさんってジブリとか見るんですね、意外ですねー。



え、えぇ…まぁ…。本当は大橋のぞみの熱烈なファンなだけだけど。


そうオレが冗談交じりで言うと、明らかに女子社員の表情が曇る。




え、のぞみちゃんで何する気ですか?




いやいや、別に何もしませんよ。
つーか、彼女は作中にその姿を見せることはないだろ?
ポニョ見たことないから分からないけど、多分出ないだろ。
そんなんでオレが何をするって言うのさ。



えー!声だけでも、つーか歌声だけでも満足なんですか?



まぁね、オレも大人なモンですから否定はしませんでしたよ。
そもそも熟女好きだってのは、今や普遍の事実として世に浸透してると思っていますので、別にかまいやしませんよ。


つーかさ、あまりにもブログ放置しすぎて時の流れについていけません。
今頃ポニョって、一体どんだけ放置すりゃいいんだよ。


あ、前回更新したのって、ポニョが上映させるもっと前だったか。


あの頃はオレの下腹部もポニョってなかったなぁ……。
 


だめだ、落とし方も忘れてしまった。




そんな感じで。

渡辺君の限界。

仕事帰りのお楽しみと言ったら、言うまでもなく今日も食べるよ月見そば!でありまして、本日もいつもの店に馳せ参じるのであります。


場末の立ち食いそば屋だけに、集う輩といったらオレみたいなくたびれたサラリーマンやその日暮らしの低賃金労働者など、まぁピラミッドの底辺をせっせと支え生きているような連中がほとんどで、でもこの場所はそんなオレたちにとって聖地のような場所だったりして…。


ところがね、そんな我等のネバーランドに今日は場違い感満載の糞みてーな女がやって来て、ガシガシプレッシャーをかけてきやがる。
その女の風貌はと言うと、正にひとり叶姉妹と呼ぶにふさわしいもので、これでもか!これでもか!と溢れんばかりに爆裂な乳を強調し、どっからどう見てもひとつでオレの年収に匹敵するほどの貴金属を、これまたこれでもか!と身に着けている。
ついでに言っとくと、どうやらお付きの者みてーな男を2人引き連れておりまして、ソイツらが律儀に店の外で待機してやがるんです。
その風貌たるや、今や昔のトラジ・ハイジを彷彿させるいでたちだったりして。


まぁね、いいんですよ。
そりゃたまにはセレブな輩も、庶民の生活を覗き見するのは良い勉強になるでしょうから。
そして社会的弱者の生活ってのがどんなに辛いものなのか、少しでも理解できるだろうから。


でもね、どうしても許せないことがひとつ。


程なくして注文の品を手にひとり叶姉妹が振り返る。
さて、どこにスタンディングでイーティングしようかしらと、無駄にギラついた眼でサーチングなひとり叶姉妹は、あろうことかこのオレ様の隣をロックオン!
まぁでもこれまた別に問題ではないんですよ。
隣に来ようが、どうしてこの店には椅子が無いんだ!とパルプンテ的な呪文を唱えようがオレの知ったこっちゃない。


たた、どうしても許せないのはその匂い、いや臭いというべきか。
とにかくね、およそ飲食店に出入りしてよいレベルを超える香水の散布率でオレの鼻を刺激してくれて、そりゃもう不快以外の何物でもない。きっとひと嗅ぎでオレの1ヶ月分の小遣いに匹敵する価格と想像できるが、不快なもんは不快だ。せっかくの月見そばが、何だかうんこみてーな味にしか感じられない状況に追い込まれているし。


糞が!


もうね、とにかく早急にどっか行って欲しい感満載です。チクショー!一言物申したい!
でも内気な僕には到底言える筈もない。


しかし今日は違う。
今日はひとり叶姉妹の反対隣にヤツがいる。
頼れる男ナンバー1の渡辺のヤツが。
オレはさっそく渡辺君に指示を出す。ただし、言葉にすればひとり叶姉妹に聞こえてしまう可能性があり、下手するとお付きのトラジ・ハイジが飛び込んでくるかもしれないので、もちろんアイコンタクトによる伝達だ。



ん?あぁ、そういうことですか。任せてください!



さすが頼れる男の称号はダテじゃない。
口元まで運んだエビ天を悲しそうに器に戻し、箸を置いて渡辺のヤツは年齢不詳の妙な女の所へと向かい、開口一番そのラヴリィな思いの丈をぶちまける。



姉さん!ちょっといいですか?余計なお世話かもしれませんが、せっかくの純白のコートにカレーうどんの汁が跳ねちゃってますよ!




これが渡辺君の、いや、オレの限界だったのかと深く反省するのであった。
頭ん中ファンタスティポだったのは、どうやらオレたち2人の方だったようだ。




以上。




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渡辺君に聞く。

今日もいつもと同じ電車で家路を急ぐ。
そして、そんなオレの横には、やはりいつもと同じように渡辺君がいた。

ただひとつだけいつもと違うことがあった。
今日はいつもより可愛く見える女性が、この電車に沢山乗っているような気がすることだ。



なぁ渡辺君、この電車ってさぁ、いつもこんなに可愛い女の子乗ってたっけか?



渡辺君は、どれどれと辺りを見渡して確認して答える。



そうですかぁ、いつもこんな感じだと思うんですけど…。



いや、そんなことはない。
確かにいつもとは何かが違うんだ。
それだけは間違いない。

気になったら末代まで…が信条の渡辺君が改めて女性をチェックする。
ひとりひとり舐めるように確認する。
ついでにオレのことまでチェックする。



先輩分かりましたよ!いつもより可愛い女性が沢山いるように見える理由が!



さすがは渡辺君だ。頼れる男ナンバー1の称号はダテじゃない。
オレはさっそくその理由を聞いてみる。



やだなぁせんぱーい。ほら、窓に映った自分の顔をよく見てくださいよ。



そういわれて窓に映る己の姿を確認してみる。
ない!
そこにあるべきメガネが無いのだ!



渡辺―!オレのメガネがねーぞ!こりゃどういうことだ!



それに対し、青い顔して彼が答える。



先輩!きっとお洒落泥棒の仕業ですよ。



渡辺!そうすると犯人はこの中に!?



いや、そういえばさっき先輩の机に置いてありましたよ…。




あぁ、見えない方が幸せなこともあるとは、こういうことだったんだと初めて知った夜…。




以上。




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渡辺君が行く。

先輩、あれを見てください!



電車に揺られながら覗き見防止シートという弾幕に守られ、エロサイトなんぞ閲覧しておると、渡辺君がなにやら有り得ないモノを発見したらしく、血相を変えてオレに言ってくる。

一体何事だ!と、偶然見つけた秀逸かつ悩ましい表情の裸婦女子満載サイトを、烈火のごとくお気に入りに追加し振り返ると、そこにはこんな季節には珍しい、生足剥き出しにしたAKB48の26番目の娘似で激烈に可愛い女子高生が、吊革につかまりながら立っている姿が見える。



そうじゃないですよ!もっと上、彼女の顔を見てください!



そう言われ改めて視線を彼女の可愛い顔に向けると、あろうことか彼女の顔には左の眉がないという悲劇が訪れていることが確認できた。
まぁアレだ、何らかの事情で右の眉だけなくなったのだろう。
右だけ書き忘れたとか、彼との淫らな行為の際に舐められたとか…うん、ストッキング無しな辺りから察するに、きっとこの線で間違いないだろう。
破りやがったな!羨ましいぞ、彼氏!
なんて想像していると渡辺君がささやく。



一体彼女の身に何があったんですかね?



気になったら末代まで…が信条の彼がうるさいので、オレは適当に受け流す。



あぁ、きっとお洒落泥棒にでもやられたんだろうよ…。



そうすると犯人はこの電車の中に!?



あぁ、そうだな…。




お嬢さん、淫らな事情があるのは分かりますが、出来ることなら乱れた後のメイク直しはきっちりお願いします。
でないと渡辺のヤツがうるさいので…。



そんな感じ。






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怪盗あらわる!

先輩、あれを見てください!



電車に揺られながらピコミクっていると、渡辺君がなにやら有り得ないモノを発見したらしく、血相を変えてオレに言ってくる。

一体何事だ!と、渋々ゲームを中断して振り返ると、そこにはすらっと背の高い清楚な女性が、吊革につかまりながら立っている姿が見える。



そうじゃないですよ!彼女の足、足元を見てください!



そう言われて視線を足元に落とすと、彼女はあろうことか左足に黒のロングブーツ、そして右足にはナイキのスニーカーという有り得ないいでたちであることが確認できた。
まぁアレだ、何らかの事情でみぎのブーツだけはけなくなったのだろう。
右だけ壊れたとか、右だけ怪我したとか、右足だけ急に太くなったとかそんな感じ。



一体彼女の身に何があったんですかね?



気になったら末代まで…が信条の渡辺君がうるさいので、オレは適当に受け流す。



あぁ、きっとお洒落泥棒にでもやられたんだろうよ…。



そうすると犯人はこの電車の中に!?



あぁ、そうだな…。




お姉さん、事情があるのは分かりますが、出来ることなら両方スニーカーにしてください。
でないと渡辺のヤツがうるさいので…。



そんな感じ。



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見えないコンタクトレンズ。

朝起きてシャワーを浴びた後に洗面所の引き出しを開けてみると、使い捨てコンタクトの残りがあと一枚であることに気が付く。
左目の視力が右目に比べて悪い僕は、いつも片目にだけコンタクトをいれている。ちょっと前まではメガネも使ったりしたが、右が裸眼でも大丈夫なもんだからただのガラスが入っていて、左だけが厚いレンズになってしまい、何だか左右のレンズの色のバランスが傍目からは悪いらしく、そんな指摘を受けてからはメガネを使うのをやめ、車の運転をする時以外は裸眼で過ごすようになった。
仕事のある日は運転をすることが多いので、朝からコンタクトを左目にいれて出勤する。

今日の帰りにでも、またいつもの店でコンタクト買って帰るか…。



僕には2つ年上で26歳の恋人がいる。彼女は誰もが羨む程の美人で、スタイルも良く、僕にとって自慢の恋人だった。ただ、もう付き合って1年になるというのに、キスから先に関係が進んでいないことが僕にとって悩みの種だった。

仕事を定時で切り上げ、僕は駅前のコンタクトレンズ販売店へと向かって歩き出した。夕方の時間はいつも仕事帰りの客で混雑する店なので、今日は普段滅多に通ることのない路地を横切り近道をしようと思い、薄暗い路地へ進行方向を変える。
僕には急ぐ理由があった。今日は彼女が一人で生活しているマンションに泊まりにおいでと言っているからだ。今まで遊びに行くことは度々あったのだが、どんなに帰りが遅くなっても泊めてくれることがなかった。なのに今日は…。僕は二人の関係を進展させる日がついに来たと、興奮を抑えることができなかった。

薄暗い路地を少し進むと、前にここを通った時には見掛けなかった店があるのを見つけ、その店先に貼ってある広告に僕は目を奪われた。



【見えないコンタクトレンズあります】



その意味が良く分からなかった僕は、しばらくそこに立ち止まって頭を悩ませていた。良く見えるコンタクトレンズって言うならば話は分かるが、見えないってのはどういう意味だろう。とても薄くて目に見えない程とでもいう意味だろうか…。

そんなことを考えながら店先に立ってると、店内から女性の店員が現れて、よろしかったらお試しになってみませんかと、僕を店へ入るように誘う。
まぁどうせ今日はコンタクトを買いにきたんだ、見えないコンタクトってのがどんなもんなのか気にもなるし、別にいつもの店じゃなくても今使ってるのと同じものを取り扱っているだろうから、値段によってはここで買ってもいいだろうと、僕は店員の後に続いて店に入ることにした。



「お客さまは当店のご利用は初めてでございますか?」



初めても何も、こんな所に店があるなんて知りもしなかったよ…とは言いにくかったので、はいと一言返事をした。



「それでは見えないコンタクトレンズについてもご存じないことでしょうから、ご説明させていただきます。こちらの商品をご利用になられますと、世の中に存在する嘘、偽りなどが見えなくなり、大変便利な生活が送れるようになります。」



は?何を言っているんだ?嘘、偽りが見えなくなる…。僕は彼女の言っていることの意味が理解できなかった。



「一度お試しになってみませんか?今なら1枚無料でお使いいただけるキャンペーンを実施しておりますので。」



何だかよく分からないけど、とりあえず僕にはそんな得体の知れないものを目に入れるなんて抵抗があった。でもあからさまに断るのも何だか悪いような気がして、とりあえず今使っているものと同じものがあるのか、そしてその価格がどれくらいなのかという方向に話題をすり替えようとした。
すると彼女がにっこり微笑んで僕に言う。



「お客様、失礼ですが左の前歯を無くされたのはいつ頃ですか?」



一瞬ドキッとした。3年前まだ学生だった頃の話だが、友達と一緒にスキーに行ったときに僕は転倒した拍子に持っていたストックに前歯を打ちつけ、左側の前歯を失ったのだ。だが、その日のうちに歯科医へ向かい処置を施したので、その事実を知るのは当時の友人数人だけのはずだった。その頃、大学へ通うため親元を離れて一人暮らしをしていたので、家族ですらその事実は知らない・・・。奮発してセラミックで出来た高価な差し歯を入れたのがよかったのか、今まで誰からも偽物であることを指摘されたことなどなかったのだ。



「どうして分かったのですか?今まで誰にもバレた事がなかったのに。」



彼女はまた微笑んで僕に言った。



「それは私が見えないコンタクトレンズを使っているからですよ。」



世の中に存在する嘘、偽りなどが見えなくなり、大変便利な生活が送れるようになります・・・。
そういうことか。



「どうです?お試しになられますか?」



まだ若干眉唾な話であるという思いは払拭しきれないが、まぁキャンペーン中につき無料だということなので、騙されたつもりで使ってみることにした。
店員さんに今使用してるレンズの度数を教えると、奥のほうから試供品を左右1枚ずつ持ってきてくれた。必要なのは左だけだと伝えると、左右1枚ずつが無料になるということで、もう1枚のほうはお持ち帰りくださいとのことだったので、僕はポケットに押し込んだ。
そして鏡を見ながら左目にレンズを入れてみる。



「いかがですか?」



店員の問いかけのあとに辺りを見渡してみる。うん、いつも使っているものと遜色はないくらいによく見える。その違いがまったく分からないくらいに違和感はない。
あっ、そうだった。はっと気づき、僕はもう一度鏡を覗き込む。まずは左目を閉じて作り笑いの自分をみた。そこにはいつもと同じ見慣れた顔があった。そして右目を閉じてもう一度自分の顔を見てみる・・・。
ない!確かに左目で見た鏡に映る顔には、そこにあるべき差し歯が映っていない。本来あるべきところはまるでぽっかり穴でも開いたように何もないのだ。
僕は何度も右を閉じたり左を閉じたりしながら、目の前で起こる不思議な現象を繰り返してみた。



「どうです?今日一日お使いになってみて、お気に召されましたらまた後日いらっしゃってください。」



そういわれ僕は、見えないコンタクトレンズを入れたまま店を後にした。
面白いものを見つけたことを早く彼女に教えたくて、僕は急いで地下鉄へ飛び乗り、息を切らせながら席に着いた。

あらためて見えないコンタクトレンズを通して世界を見渡してみる。向かい側に座っているおばさん2人が周りの迷惑も気にせず大声で話をしている。右目で見るとごく普通の光景だが、左目で見るとおばさんの口の中には、本来あるべき歯がなかった。
あのおばさん総入れ歯だな。まぁそのことに関して、僕はなにも言えないけど・・・。
今度はドア付近に立っている女性に目を向けてみた。肩から高そうなブランド物のバックを下げて、澄ました顔で外を見ている。だがもう一度左目で見てみると、本来肩から下げているはずのバックがそこにはなかった。なるほど、あのブランド物のバックはどうやら偽物らしい。



そうしていると、彼女の住んでいるマンションがある街に着き、僕は急いで彼女のところへ向かった。初めて彼女と一夜を共に出来る喜びと、面白いものを見つけた喜びで、僕はすっかり有頂天だった。そうだ、もう1つもらったコンタクトレンズを彼女にあげることにしよう。きっと喜ぶに違いない。
そして彼女部屋の前に着いた僕はチャイムを鳴らした。
部屋のドアが開き、エプロン姿の彼女がいつも以上にかわいい笑顔で僕を出迎えてくれた。



「いらっしゃい、早かったね。今ご飯を作っていたところだから、テレビでも見て待っててね。」



あれ?僕は異変に気が付いた。
両目で見つめる彼女の顔がぼやけて見える。
左目を閉じると彼女の顔ははっきり見える。そんな僕の姿を彼女は不思議そうに眺めている。



「どうしたの?」



そう言う彼女の顔を今度は左目で見てみた。
そして僕は言葉を失った。
彼女の顔には目、鼻、口からあごへのライン、そして視線を下げると胸の部分に何もないのだ。

肩を落としうつむくと、今度は彼女の股間の位置にも何もないのが分かった。



「本来ないはずの場所ですら何も見えないってことは、以前は何かあったってことか・・・ははは…。」



もう、笑うしかなかった。



以上。





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雲をつかんだ日(改)。

街を彩る並木の明るいイチョウは散り、年末の気配が濃厚になってきました。
いやね、来年の話をすると鬼が笑うなどとよく言われますが、んなもん創造の存在であり、さらには迷信であって他ならず、マジで笑えるもんならその姿をオレの前に表して、声高らかに笑ってみろって話な訳であります。何なら再来年辺りの豊富でも語ってやろうかいな。
つーかいるわきゃねー。なまはげ上等!わはは…。
まぁいいや。

鬼でもオバケでもそうだが、それらの何が怖いかって言いますと、その素性がよく分からないのが一番の恐怖なんじゃねーかと思うのです。
「私実際に見たことがあるんです。いやいやマジでマジで」とか、「つーかさ、俺一緒に住んでるんですけど…」などと、ちょっと残念な事実を有する方にはここはおとなしくスルーしていただくとして、いそうでいない、見えそうで見えない、正にそのチラリズムが人々の心に恐怖を植え付けるんでしょう。
ミニスカートはチラリだからこそ男性の桃色な心情をくすぐるのであって、多々ある何らかの障害を乗り越えて、いざ堂々と直視できる状況までたどり着いて見ると、意外と冷静さを取り戻してしまったりもする。
見えないからこそ恐ろしく、それ故に発生する実体を確認したいと思う気持ちこそ、怖いもの見たさという言葉の真意なんじゃねーかと思うんですよ。

でね、この季節にその到来を待ちこがれられ、鬼が出るか蛇が出るかと巷に巣食う平民どもを震撼させるものと言えばアレですよ、新春初売りでお馴染の福袋。
まだクリスマスも来ちゃいないのに、正月の話をするのもどうかと思うんだけど、オレはアレが大好きなんですよ!
そんでもって、開けてみてがっかりな場合が多いってところもこれまた大好きなんです。

「うわっ!こんな色のジャケットいつ着ればいいんだよ!」

なんてハズレ感満載なのが大好き。
それが何だ!最近は不公平感を無くすためか何だか分からんが、予め中身が確認できるようになってる物が多々ある。
コレについては何とも遺憾でありますと、どこぞの政治家とか権力者とかが、とりあえず怒っとけーって時に発する言葉を借りるしかないって具合です。
根本的に間違っていると言わざるを得ない。
あれは中身が何だか分からないからこそ購入意欲がかき立てられるのであって、そうじゃないのならばわざわざ袋に入れて秘密裏感満載で販売する意味がないと思うのである。何が入ってるか分かっているのなら、それは単なる安売りのセット販売だったり、抱き合わせ商法(ドラクエ商法)であって他ならない。
ちなみに福袋ってのもどうやら仙台発祥らしい…。
まぁいいや。

そんなことをぼんやり考えながら家路を急いでいた先日の話なんですがね、ちょっと小腹が空いてきたオレは、己の胃袋と相談しながら街に溢れる飲食店の看板を眺めていると、大変興味深いフレーズを目にする。

「シェフの気まぐれパスタ850円」

もうね、そばを食いたいと主張する胃袋の意見なんぞ無視し、その店に即決と相成りまして地下にある店舗へ続く階段を下りる。
席に着き注文するのはもちろん気まぐれパスタだ。

「今日の気まぐれのメニューは何ですか?」

などと聞くような真似はしない。ついでに言っとくと、日替わり定食なんかを食うときも、そのメニューの詳細は聞かない。何が出るかはお楽しみ、それが曖昧な表現を持つ商品を注文するときの醍醐味だと思い込んでいるから。

程なくして我がテーブルに注文の品が運ばれてきた。何やらカニだかエビだかを絡めたソースがたっぷりとかけられ、恐ろしいほどに食欲をそそる美味そうなパスタとスープのセットだ。
一口食してみて確信する。コレは当たりだ!この味で850円は安い。
気まぐれであるこのメニュー、本来であればその詳細については深く追求しないのであるが、あまりに美味かったので一人の店員を捕まえて材料が何であるのかを聞いてみた。
そうすると、その店員は声を大にしてシェフをに訊ねる。



「シェフ!今日の気まぐれは何ですか!?」


その声に呼ばれて厨房から現れた男は、シェフと言うよりは確実に板、もしくは親方と呼ぶに相応しい風貌、且つ無愛想な男だった。



「ワタリガニー」



とシェフは一言。
とにかく滅法美味かったということだけは事実であるので、これ以上言うことは何もない。
美味けりゃそれでいい。
そして無愛想なシェフの気まぐれは、それはそれはナイスだったいうことは間違いない。


福袋も日替わり定食も、そして今回のような気まぐれメニューも、オレにとってはギャンブル的要素を含む存在であると言っても良い。
だから、当然のようにハズレを引くときだってあるわけだが、その一方で当たり引いたときの喜びは計り知れない。
そうやって考えてみると、やはり初めからその内容が分かっている福袋や日替わりメニューなんてのは、オレにとっては無しだなぁと思わざるを得ないのである。
まぁその辺の考え方は人それぞれですので、実際はどうでもいいんですけどね。
そもそも日替わりメニューの詳細なんて、どこの店でも大っぴらにしてますし…。


さて、そんなこんなでお腹もいっぱいになり、ご満悦で帰路につくオレ様。
帰宅完了し、そう言う訳で飯はいらないからというオレに対して妻は言う。



「ご飯食べないんだったら早く言ってよ!携帯持ってんでしょ!」



あぁ、その形相は正に冒頭のアレだった。
しかも笑ってねーし。

鬼は己の心の中に巣食い、己の心が創造する。

そして自分のあさはかさが作り出した鬼に怯えながら、オレはそそくさと就寝したのでした。




そんな感じで。




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セミ。~Last program of a series~

街を歩くと木々の葉は力強く、そして青々と茂りその存在を主張していた。俺は昨晩オフィスに一人残り徹夜で完成させた会議資料を小脇に抱えて、取引先が営業所を構えるオフィス街の高層ビルへ向かって歩いていた。今週中に届けてくれればよいという先方の言葉に甘え、その作成を先延ばしにしまくっていたら締め切りは明日に迫っていて、仕方なく残業覚悟で資料と向き合ったのだが、結局完成したのが明け方の5時近くだったので、その日の帰宅はあきらめて来客用のソファーで仮眠を取った。慣れない格好で眠った為かどうか分からないが、何だか体が軋んでいたので、俺は一度歩みを止めて大きく背伸びをした。
そういえば今回の仕事から先方の担当が換わるらしいと言う上司の言葉を思い出し、初対面の方へ失礼がないようにと、俺はショーウインドーに映る姿から寝癖が付いていないか、そして着衣に乱れがないかと、身だしなみを確認しながら先を急いだ。もう一度背伸びをしようと両手を広げて空を見上げると、不規則に伸びた枝や青い葉の隙間を縫って強い太陽の日が差し込んできて一瞬目が眩んだ。まだ梅雨明けの宣言を耳にしてはいないけれど、既に日差しは真夏のそれと遜色がない程の眩しさと力強さを孕んでいるようだ。
通勤ラッシュに揉まれ渋滞する車から発せられるエンジン音、そして雑踏から溢れ出す騒音に混じり、遠くのほうからセミの鳴く声が聞こえる。
どうやらまた、暑い季節がやってきたみたいだ…。


訪問先のオフィスビルは俺の会社から歩いて15分くらいのところにある。通常であれば徒歩で向かってもそれほど苦にならない距離ではあるが、初夏の朝ということで油断していたのがいけなかったのだろう、既に気温は急激に上昇し、会社を出てから10分くらい歩いた頃には背中がじっとりと汗ばんできた。ただでさえ昨夜は会社に泊まりこんで仕事をしたので、着替えをすることができなかったということもあり、その不快感は筆舌に尽くしがたいものがあり、俺は車で来なかったことを大いに後悔していた。額の汗を拭いながら次の角を曲がると、そこに目的のビルが見える。よかったもう少しで到着だ。
ふと、訪問先である地上30階を越える高さのそのビルを見上げると、その天辺から黒い点が地面に向かって落下していくのが見えた。何だろう、この光景と似たような場面に最近一度遭遇しているような気がする。記憶を辿ってみるとそれが何なのか直ぐ様分かった。
あぁ、先週の日曜日に見た光景と似てるんだ…。


2、3日前から日本列島を襲った台風は、今朝までその余韻を残すように大粒の雨を降らせてはいたが、それもお昼前にはからっと上がり、それと同時に気温も一気に上昇してきたようだ。本当は昼過ぎまで惰眠を貪るつもりでいたのに、あまりの暑さと湿度の不快感に耐え切れなくなり、蒸しだされるようにして寝床から這い出してきたって所だ。


茹だるほどの暑さを感じる休日の午後、俺は縁側に腰を下ろし、木陰を忍び足で通り抜けた時に、本来の穏やかさを思い出した様に熱を失った夏の風を火照った体に浴びながら、ふと思い出したかのように読みかけの小説など捲ってみる。傍らにはうまくバランスを保ちながら浮かぶ氷が2つ3つ入った麦茶なんぞ置いてあって、グラスを持ち上げた時にカラカラと涼しげな音を奏でる。汗ばんだ体が時に悲鳴を上げることもあるが、何だかんだと言いながら、俺はそんな夏の何気ない一時が好きだったりする。
暑さに耐えながらこれと言って目的もなくただぼぉーっと過ごす。そんな時間の流れは思いの外心地よくて、そんな時は何故か暑ければ暑いほど良かったりする。
また、じりじりと焼けるような日差しが焦がす、土やアスファルト、草木の香りはどこか懐かしく、時に少年の頃の暑かった日を彷彿させてくれたりもする。
きっと夏が好きなんだと思う…。
 
夏の到来をなんとなく感じながら、読んでいた本の最後のページを捲り終えると同時に、目の前をトンボの群れが横切っていくのに気が付いた。トンボはアスファルトから立ち込める水蒸気が作り出した透明のカーテンの合間を縫うように、ゆっくりと羽ばたきながら我が家の庭先を右から左、そして左から右と自由に飛び回っている。
夏の終りから秋だって、俺の頭の中で勝手に相場が決められている彼らの到来は、何だか季節感を狂わせてくれるなぁと思いつつも、庭先の草木にその体を委ねながら正に羽を伸ばす彼らの姿をぼんやり眺めていると、頭の中に幼い頃の記憶が蘇ってくるのに気が付き、俺はくわえ煙草で紫煙を燻らせながら、その記憶をゆっくりと辿ってみた…。


ランニングシャツに麦藁帽子をかぶった幼い頃の自分が、虫取り網を片手に微笑んでいる。どうやら1匹のトンボに狙いを絞って捕まえようとしているみたいだ。トンボってヤツはコツさえ掴めば思いの外簡単に、それこそ素手でも捕まえられた。気配を殺しながらそぉっと近づき、指先で優しく羽をつまむ。記憶の中の少年は難なく1匹のトンボを捕まえ自慢げに友達に見せていた。
今思えば可哀想な行為ではあるのだが、そうやって次々に捕まえられたトンボは狭い虫かごの中に押し込まれ、そして彼らの一生はそこで終える。子供ってのは時にとても残酷な生き物だ。でも、そうやって命の尊さ、重さみたいなものを学んでいくのだろう。
少年は同じようにセミの捕獲にも挑戦しているようだ。だが、今度はトンボの時のように簡単にはいかないらしく、何度も何度も虫取り網を振り回してはその後を追っている。セミの注意力っていうか、危険察知能力っていうのか良く分からないが、とにかくトンボのそれとは比較にならないくらい鋭くて、なかなか思うように接近を許してはくれないし、ましてその体に触れることさえ至難の技だった。


あの頃少年には孝という名の1歳年上の友達がいて、学校が終わるといつも一緒に虫取りなどをして遊んでいた。孝は虫取りの名人で、その手にかかれば俊敏なセミと言えども難なく捕まってしまうほどだった。少年の目にはそんな孝の姿がとても羨ましく見えていて、そのこつを教えてもらったり、技術を盗もうとして彼の動きをじっと見つめたりしていたけど、結局素手で捕まえた記憶が少年の脳裏に刻まれることはなかったように思う。


「そんなさぁ、捕まえるぞーって顔しながら近づいたってだめだよ。俺がセミだったら絶対にお前には捕まらないよ。」


捕まえたくてしょうがないって思いが殺気立たせているんだろうか、少年はいつも強張った顔でセミに近づいて行

き、結果逃げられてばかりいた。


「じゃあさ、どうすれば孝君みたいにうまく捕まえられるのさ?」


そんな少年の質問に対して孝は笑って答えた。


「へへへっ、分かんない。あんまり考えたことないからなぁ。そもそも何も考えていないと思うんだけどな。」


俺は揉み消した煙草の代わりに手に取った麦茶をすすりながら、そんな幼い頃の記憶を蘇らせていた。
孝とは家も近所だったこともあり、中学生の頃までは仲良くしていたが、学年が1つ違ったことや、その後それぞれ別の高校に進んだことから徐々に疎遠となり、今では彼がどこで何をしているのかも分からなくなっていた。噂で耳にした話によると、高校卒業と同時に東京の大学へ進学し、今では地元に戻り就職したという話しではあるが、その真意は定かではない。
機会があったら、久しぶりに会ってみたいものだ…。


そんなことを考えながら遠くをぼんやり見つめていると、青い空の彼方からひとつの黒い点がこちらに向かって近づいてくるのが見えた。だんだん大きくなっていく点は、ジジジと乾いた歌声を轟かせているのが分かり、そして俺の足元にふわりと舞い降りると同時に歌声も消えた。セミだった。


どのくらいの時間が経過しただろうか。
オレは気配を殺しながら、目の前に舞い降りた黒い点を見つめていた。
捕まえようと思った訳ではないけれど、あの時孝が言ったように何も考えずに、頭の中を空っぽにして見つめた。
そして俺は思った。

全くこちらの存在に気が付いていない様子のセミ、今ならばあの頃触ることさえできなかったその体に触れることが出来るかもしれない。あの頃の自分より、良いことも悪いことも比較にならないくらいに経験を積んだ今の俺なら、何だか触れられる気がした。

全くその場から飛び立とうとしない黒い点。
俺はそっと手を伸ばしてみる。
だけどまもなくその体に届きそうになった時、俺は思わず躊躇した。何だかこいつに触れてはいけないような衝動に駆られたのだ。 引っ込められたその手に、近くに無造作に置かれていた携帯電話を掴みカメラを起動してみる。接写モードに切り替え、至近距離まで接近しシャッターを切った。
それでもその場から離れようしない被写体からは、既にその場から飛び立とうという意志は微塵も感じられなかった。
ほんの数日間という短い命を全うしたセミは、どうやらここを死に場所に選択したみたいだった。
かごの中に押し込まれるでもなく、外敵の血肉となるでもない。その短い生涯を俺の目の前で終えようとしているセミ。 何を思い、そして誰にその意志を伝えようとしているのかなんて分かりはしないし、きっと彼自身そんなことなどどうでも良くて、ただ静かにこの場で一生を終えようとしているだけだったのかもしれない。




ビルの天辺から落下していく黒い点を見つめながら、そんな休日のひと時を思い返していた。
程なくして点は地面に到達し、それから数秒後に悲鳴のような声が聞こえてくる。誰かが飛び降りたに違いないと容易に想像がついたので、出来ることならば悲惨極まりないであろうその光景は目にしたくないと思い、その場を避けて通りたかったのだが、手に持っている書類を届けなければならない場所は正にそのビルの中にあるので、俺は渋々一度は止めた足をまた進めることにした。
取引先の営業所の入り口となるビルの正面玄関前には、どこからともなく集まった人々により既に群集が出来ていて、辺りは騒然としていた。30階を越える高層ビルから飛び降りたのだから、間違っても助かることはないであろうことは火を見るより明らかではあったが、通行人の一人が救急車を呼んだらしく、遠くの方からサイレンの音が近づいてくるのが分かった。徐々に増える人だかりを離れた場所から眺めていたが、何だか妙に胸騒ぎがしたので、俺は背伸びをしたりしながら輪の中を覗こうと試みるが、あまりに人が多くそれも出来そうにないと思い、まだ取引先との約束の時間までは間があったが、あきらめてビルの中に入ろうと諦めかけていたら、救急車のサイレンの音が真後ろまで迫ってきているのが分かり、程なくして到着した車の中から救急隊が駆け出してきたのと同時に、群集の輪が左右に分かれて人だかりの中心の光景が目の中に飛び込んできた。人通りが多い朝の通勤時間であるにも関わらず、幸い誰かを巻き込んだような形跡はなく、そこに横たわっていたのは1人の男だけであるのが分かる。何故か不自然に足から着地したらしく、飛び降りによる影響は下半身に集中しているようで、顔にはほとんど損傷がないように見える。救急車に続いてパトカーも到着し、今度は警察官が群集の輪を切り裂いて現場へと入って行く。
男は救急隊の手で担架に乗せられて救急車へと担ぎ込まれ、程なくして走り出した車から発せられるサイレンの音は徐々に雑踏の中へと消えていった。

群集の中に横たわる男の姿は、まるで先日我が家の縁側で見たセミのようだった。ふわりって訳にはいかなかったようだが、高層ビルの足元に舞い降りたその体は、もう二度と自らの意思でその場から離れることはなくなった。
そういえば子供の頃、孝がこんなことを言っていた事を思い出す。


「いつかセミみたいに自由に空を飛んでみたい。」


そんな言葉に対して俺は、いつだって目的地に向かって真っ直ぐに飛ぶセミよりも、もっと自由に空に浮かんでいるトンボの方がいいなと言っていたことも思い出した。どんなに頑張ってもセミを捕まえられなかったことに対する負け惜しみだったと言うことも一緒に。


気が付くと大勢の警察官が既に集まっていて、現場検証のためだろうか、黄色いロープを使って男の着地地点を囲い始めると同時に、目撃者を求めて近くにいる群衆に対して無作為に職務質問を開始しているようだった。ふと見ると道路向かいのビルに設置されている電光掲示板に午前9時を示すメッセージが流れるのが目に付き、それと一緒にどこからかチャイムの音が聞こえてきた。まもなく約束の時間だったので、俺は警察官に声をかけられると面倒だと思い、その前にビルの中に入ろうと振り返りその場を離れた。
ビルの正面入り口付近に止められているパトカーの一台から、無線の声かすかに聞こえてきた。


「飛び降りたのは高橋孝30歳、現場となったビルの12階に所在する企業に勤務。搬送先の病院で死亡確認。」


そうか、妙な胸騒ぎの原因はこれだったのか。
このビルの12階と言えば、今正に俺が向かっている場所だ。もしかしたら新しい担当者というのは彼のことであったのかもしれないなと思い、あと数日早く資料を完成させて訪れていたら、もしかしたら感動の再会となったかも知れないなと想像しながら、俺は額を流れる落ちる汗をハンカチで拭い、ビルの中へと足を向けた。


見上げると太陽の日差しが眩しく、会社を出るときよりもセミの鳴く声ははっきり聞こえるようになっていた。




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