☆プロと素人の差ってなんだろう?

youtubeなんか観てると、若手で誰も知らないような無名の芸人だったり、プロ志望の歌手なんかのパフォーマンスがいっぱい出てくるわけですよ。そして、毎回考えてしまいます。

 

「この人たちとプロって、何が違うんだろう?」

 

歌手の話からいくと、メチャクチャ「上手い」人はいます。仲間内だったら絶賛されるであろう人たちが。カラオケ番組なんかにも、「上手い」素人はたくさん出てきてることを考えても、「上手い」ことは別にプロにのみ与えられた特権では無いと思うんです。

 

ただ、「上手くない」プロも腐るほどいます。というか、「上手い」かどうかで選ばれるなら、もっと適した存在は声楽だったりAVEXの養成所を探せばいくらでも出てきます。昔なんかもっと酷くて、こう言っちゃアレですが大江千里さんの歌唱力でも大ヒットしたわけです(笑)…一応付け足しとくと、自分は大江千里さん大好きです(笑)

 

☆プロに求められるもの

結論を言いますと、プロ志望の若いミュージシャンらを見てると、

 

   「プロというのは『専門性』で評価されるものだ」

 

…ということに対して理解が無さ過ぎるのではないかと思います。基本的に誰かモデルがあって、それを追い求めるようなパフォーマンスが多すぎることを観るたびに感じます。「専門性」とは、言葉通り「その人にしか出来ないこと」なのですが、歌手という職業においては「与えられた曲の世界観をその人に最も適した形で表現できること」だと考えています。プロの歌手において「専門性」というのは歌が「上手い」ことではないのです。

 

そういった意味で、大江千里さんは「専門性」がずば抜けて高いです。あの飾らないダミ声が、曲の世界の主人公が持つ不器用さや、まっすぐ誠実さを見事に表現しているわけです。

 

アイドル集団が昔の名曲を安易にカバーしたのを聴くとなんか哀しくなりますね(笑)お前らファッションで歌ってるだろと。EXILEのATSUSHIみたいな歌い方はATSUSHIがやってるんだから、それを真似しても誰も見向きしません。そいつのために曲を書くくらいならATSUSHIに書きますから(笑)

 

お笑いなんかもそうで、売れない奴らのネタを観てると、明らかに裏に教科書のようなものが見えます(笑)異様なほど整った秩序があって、理屈によって言葉を弾き出してる感じ。お笑いってそういうもんじゃないですよね。

 

さっきの話をお笑いに当てはめると、お笑いの専門性は「与えられたネタの世界観をその人に最も適した形で表現できること」と言っていいでしょう。もっと分かりやすくいうと「自分らのネタを最も面白く表現できること」です。

 

最近は若手の人材不足なのか、教科書通り作った「美しい」ネタをやる一般人みたいなやつもちょっと世に出るようになりました。少し前だとラフレクランとかがそうだったでしょうか。今はどうか知りませんが、こんな奴(イケメンの方)が評価されてしまう時代です。

 

 

こいつ、元アナウンサーであることを目玉商品にしていますが、元アナウンサーであったことが全くネタに活かされていないどころか自己紹介ついでに軽く自慢してます(笑)しかも最も笑いにならない謙虚な感じで。ツッコミのセリフもどこか置きに行った(それでも50点くらいの)フレーズしか使わず、とにかく自分を汚さない姿勢みたいなのが本当に気に食わないですね。

 

さて、こいつの悪口はそのくらいにして、今回言いたいのは「こいつである必要が全くない」ことです。イケメンいじりするなら他のイケメンでもいいし、無難なフレーズを常識人っぽくいうだけなら常識人でもできます。

 

歌手も芸人も「その人にしか無いもの」の魅力をうまくパフォーマンスに活かせたものが初めてプロとしての商品価値を生むということになります。

 

☆活かせているパフォーマンスって?

じゃあ活かせているパフォーマンスって何かというと、現在までで一般大衆に広まり切っているものすべてと言ってよいでしょう(笑)これらは、ほぼ間違いなく独自の魅力がパフォーマンスに出てます。

 

きゃりーぱみゅぱみゅは歌唱力もクソもないですが、あの派手な見た目とあざとい歌い方がコミカルな歌の世界の住人のようです。ミスチルはざらついた声で真っすぐ歌うことで、曲の伝えたいメッセージが違和感なく入ってきます。

 

サンドウィッチマンはまるでキャラクターのようなひょうきんさで、シンプルなネタの面白さを100%引き出します。ザキヤマやフジモンなどの売れっ子が無名芸人のギャグを横取り出来てしまうのは、そいつである必要がまったくないばかりか、売れっ子のが一発ギャグへの「専門性」が高いからです。

 

☆最近の流れはズレてる

最近は芸人、歌手業界も飽和気味のようです。その証拠に、カラオケ受けばかり意識したような歌い方をする奴が「歌手」として多少評価され始めています。教科書通りのことをお行儀よくやった一般人みたいな芸人や、「そーゆーの昔見たから!」って言いたくなるネタをやってる芸人がよしもとからスター候補として担がれている現実があります。この現象は「本当に教科書通りの一般人」しかいないから、その中で「優秀な奴」から選ぶしかないんだろうなと勝手に分析しています。さらに、「見た目がよくないと売れない」なんて分かったようなこと言うやつが一般人の中にも現れるようになりました(自分もこの間生で聞きました)。こんな本質を突いていない言説が浸透することで、受け取り手が本心とは無関係に理性的な判断で評価する危険性を非常に危惧しています。大事なのはパフォーマンスがネタや曲の持つ世界観をどれだけ表現出来ているか、もしくは好きかどうかなんじゃないでしょうか…

今に始まったことではないですが、「読書」に対して変な効果を期待する風潮があるように思います(笑)

 

読書に対して

 

・知識が手に入る

・日本語の能力が高まる

・脳が活性化する

・考え方が深まる

 

こういったメリットを求めて頑張って取り組むような姿勢は、あまり良い結果を生まないような気がしています。どうにもこれらのメリットありきで、興味がない本でも「読んでいれば良いことがあるはず!!」といって一生懸命本を読む「読書家」には自分は感心しません。

 

持論に過ぎないですが、これらのメリットは「興味のある本を夢中になって読んだとき初めて手に入る」ものだと考えています。人間の脳は能動的になったとき人一倍活性化すると実感しているもんですから、無理して小難しい本を意味も分からず読んでも、それは字面を追っているだけでは?と思ってしまいます。

 

それに、つまらない本を読んでも頭に残ってませんよね?

 

興味がある本を読めば、自分と親和性の高い知識(もしくは発見)と出会えるし、そこから考え方も深まるでしょう。その中で日本語の言い回しや語彙も増えるし、それらは興味を持って読んでますから脳も活性化するし頭にも残っています。

 

そしてそれは、読書に限ったことではないはずです。興味を持って何かをする過程で、日本語の能力は置いといて、得られるものはメチャクチャ多いですよ。自分、「勉強」として学んでいたときは英語なんて全然出来ませんでしたが、自主的に学びだしたら飛躍的に伸びました。授業で触れていた音楽では全然大したことありませんでしたが、遊びで作曲だったりリズム楽器に夢中になっていたら、明らかに音楽能力上がりました。中高六年間やってた吹奏楽部より音感ありましたから(笑)

 

昨今、読書は「勉強」的な位置に置かれる向きが強くなっていると思われます。偉い人が本を千冊読んでいたからって、その差を死に物狂いの努力によって埋めるのはズレていないでしょうか?そして、その発想からスタートすると、大抵読書嫌いになるだけです。

 

それに、自分の友達で読書好きなやつは別に頭いいやつばっかじゃないです(笑)

 

「勉強」って聞くとどうも良いイメージないですよね。辛い、キツいものだけど我慢してやってれば必ずや良いことがあるでしょう。そんなスピリチュアルな社会通念に守られ、現在まで見事にその「価値」は信じられてきています。

 

「勉強」するということは、興味もない単語やら知識を必死こいて頭に入れる行為を指します。少なくともここでは(笑)そりゃ辛いに決まっています。

 

でも、そもそも新しいことを頭に入れるってそんなに苦しい、つまらないことでしょうか?そこを学校教育や受験競争は本当に見えにくくしていると思われます。そして、つまらない行為を受け入れることが、日本の集団主義社会の形成にかなり「貢献」していることは間違いないでしょう。

 

新しいことを知ろうとしたり、より深くまで探求することに対して、誤解している人は多いかもしれません。でも、そういった行為は「真面目」だから生じるものとは全く限らないはずです。ガリ勉が気持ち悪がられるのは、楽しくもない「お勉強」を死ぬほどやっているからでしょう。そのことと探求的で自己の知的好奇心を満たしてくれる「自主学習」が同列に扱われることは、学ぶことの本質をかなり見えにくくしている、もしくは歪めていると思うんです。

 

興味がないことを押し付けられ、必死に暗記する行為が強制されることで、興味を持ったことを自ら手に取り、自由に深めていく行為まで敷居が高いように見えてきます。実情として、前者の「勉強」観念を学び落としていく必要があるため、その分だけ敷居は上がっているかもしれませんが。

 

そして、後者の「学習」は超楽しいわけです。本読むのも苦にならないばかりか世界が広がるし、時には自分の考えや生き方を肯定するとても大きな味方にもなりえます。そして、集団主義に限界がきている日本社会においては、この「学習」の普及がかなり大事になってきているはずなのです。

 

是非!もっと楽しい学びを!

最近学んでると、日本がいかに社会や集団の秩序に「従って」生きているかを非常に痛感するわけであります。

 

薄給のブラック企業に何年もしがみ付いたり、やり方がどんなにおかしくても誰も変えようとしない。自分は教育について学んでるから余計にそう思います。教育界なんて上の思い付きに下のすべてが振り回されています。

 

☆「構造改革」か「自己責任論」か

「構造」と「自己責任」って本当に対極にあると思うんです。

何か問題が発生したとき、原因を究明してそれを変えていかないといけないわけです。その原因をどこに求めるかってなったときに、その集団、組織の制度に求めるのか、その失敗を犯した当事者の心構えに求めるのかということです。もっと簡単に言えば、問題の責任は「構造」にあるのか「個人」にあるのかですね。

 

例として…

 

ある企業では、社員をたくさん働かせています。クソ忙しい時期に、社員のAさんが病気で休職したいと申し出ました。

 

この場合、病気になったAさんに対し「仕事に対する姿勢がなっとらん!体調管理しっかりせえ!」というのは「自己責任論」的な解決法で、個人の心構えを正すことで再発を防ごうとしています。

 

それに対し、「病気にならないように、会社の仕事を減らしたり休みを増やそう」とか「メンタルケアする部署を創設しよう」とか「仕事を効率化しよう」というのは「構造改革」的な解決法です。

 

枠組みを変えるか、個人を変えるかという話ですが、日本は断然「自己責任論」が蔓延しています。年々増加する不登校児童、生徒に対し、義務教育学校に戻ることのみを強要する社会構造があります。ブラック企業を辞めるのは「根性無し」と言われます。いじめや虐待を受けてる子にも親や社会、友達への感謝を強制されます。いじめ問題が起こると教師の指導力不足を理由にし、解決にもならない評価制の導入や教師バッシングが起こります。貧困や家庭環境に問題があり成績が低い、素行が悪い子に対し、努力不足や「真面目でない」態度の変革ばかりを求めます。

 

とにかく組織や集団の枠組みや制度を変えることに対して保守的で、「構造」に個人を合わせる方向にいきがちです。なんというか、日本は先進国と言われますが、先進国”ぶってる”だけだと自分は考えています。

 

先に「先進国っぽい」枠組みを作ります。学校を全国に作って、街を小奇麗にして、とにかくそれなりに「良い国」っぽい雰囲気を作ることで、外からみるととても住みよい国に見えるし、内部からも表立って不満は上がりません。

そして、それを維持することに国民総出で身を捧げます。「個」を捨て、社会のために奉仕するのです。こんなにハリボテだけが充実した「先進国(笑)」もそうないと思います。

 

給料未払いで長時間労働のブラック企業なんて日本以外ではありえないと言います。このことが、日本がいかに集団主義、「構造」ありきかということを物語っていないでしょうか?

 

自分、職業欄が学生であるだけに、現在課題に追われまくってるわけであります。

 

でも、前回も書きましたが、やはり論じる系のレポートは楽しいです。向こうから与えられた答えではなく、自分の納得のいく回答を創造できますから。やっぱりこの「納得感」が伴うと、学ぶとか行動する際のパワーも計り知れないと思うわけです。そうでないとこんなに記事書けません(笑)

 

「ジョジョの奇妙な冒険」の七部で、主人公のジャイロ・ツェペリは、死刑執行人という仕事が自分に世襲されることになりました。しかし、自分の初めて担当する囚人に対し、死刑を執行することに戸惑いを見せます。その囚人は子どもで、犯罪の現場にいたというだけで捕まり、死刑を命じられたのでした。

 

そのことに疑問を感じたツェペリは「俺は納得感のある仕事がしたいだけだ!」と自分の考え、信念を大切にした結果、その役職から降りたのです。

 

本当に良いシーンだと思います。自分の納得する生き方がしたい。そう考えるのが立場上難しいことへの葛藤は、現代の日本でも全く存在しないとは言えないのではないでしょうか。

 

「皆が卒業したらすぐ就職するから…」「とりあえず皆と同じことしなきゃ…」「仕事超つまんねーけどしょうがない…」ということは多いと思われます。そういった意味で、日本の社会は納得感を持ちにくいといえるでしょう。納得を捨てて、社会の歯車になることを学校から社会から国から強制される構造があり、そこから外れることは「わがまま」「自分勝手」とされるのです。

 

もっと日本社会全体が「納得感」の持つ力を大切にしていいと思うんです。それが伴わない仕事は誰でも出来るレベルからなかなか抜け出せませんから。

今回はよくある?悩みについて書きます。

 

こういう人、意外と多いんじゃないでしょうか。「本を頑張って読んだけど、読み終わった後で感想が浮かばない、内容を忘れてる」という人。

 

自分が最近までその最前線を突っ走っていたので、その苦しみが痛いほどわかるんです。苦行に耐えるように文字を追った。もしくは共感する部分はところどころあった。けど、読了後には何も残ってない。そんな人が読んでくれていると非常に嬉しいと思います。

 

解決策は人それぞれでしょう。というのも、原因は色んなところにありますから。

 

ではそれを探っていきましょう。本を読んで頭に残るプロセスはおそらくこんな感じだと思われます。

 

①読む

②共感、反発する部分が多い

③読了後、それを含めた全体の流れが、ある程度頭の中でまとまっている

④感想が浮かぶ

 

悩んでる人は、このプロセスに共感出来ないと思います。それが、①②③④のどれが満たされていないからなのか検討してください。

 

①が満たされてないということは、つまり「難しい、もしくは馴染みが無さ過ぎて読めない」ということになります。それは、「自分に合ってない」ということなので本自体を変えましょう!(笑)

 

②の場合、「共感、反発が湧かない」ということになります。それは、「自分がその分野について考えを持っていない」からだと思われます。立場もないのに賛成反対もありませんから。興味がある本を手に取った場合、ここ自体はクリアできていることが多いのではないでしょうか。

 

③が一番大事ですね。そして、ここが悩みのタネになっていることが多いと思われます。

この場合は「部分部分では理解しているが、全体像が分からない」となるでしょう。

全体像をつかむ訓練としては、

 

この本が言いたいことを一文にまとめる

 

というチャレンジをしてみてください。これをやることで、本の構造がほぼ必ず把握できるでしょう。

なぜなら、一文にまとめるためには筆者の立場性を考え、一章毎の主張をまとめ、それを組み立てて全体の流れを眺めるような行為が不可欠になるからです。

 

④が出来ない人は③も出来ない人が多いんじゃないでしょうか。なぜなら、本の全体像を理解していないと頭に残らないからです。頭に残らないと感想の言いようがありません。むしろ、全体像をつかむ訓練ができていると、新しい本でも、全体像を掴みながら読めるようになります。これマジで。

 

そして、③が出来ると④も自動でできるようになります。なぜなら、細かい感想は②で共感、反発として既に湧いているからです。それが全体への共感、反発に代わるだけなのです。

 

だからこそ、③の問題は根深い…③を解消することは自分の立場性を明らかにするのに必要なことでもあり、非常に意味があります。ですから是非、自分の興味のある本でやってみてください!

最近、記述式で自分の考えを述べるテストが大好きになりました。

 

とある本と出会い、自分の考えてることの輪郭がはっきりとしたことで、急に論の組み立てが出来るようになったのです。

 

ちなみに、その本は論じ方指南とか、そういったノウハウ的な本ではありません。あんなもん読んでも論じる力は付きません。

 

自分の実感としては、論じるのが苦手な人は、論じる方法を知らないわけではないのだと思います。論じる能力は備わっているんだけど、自分の考えの輪郭が掴めていない、座標軸のどこに位置しているか分からないことが何よりの原因なんだと思います。ですから、そこから脱却するためには、他人の考えを基準点にして自分の考えを炙り出す必要があるのです。

 

自分の読んだ本は日本の自己責任論を否定したただの教育書だったのですが、それが自分の理念と合致し、補強する内容だったために自分の考えも明確に分かったんです。読んだ日から急に論じれるようになりました(笑)

 

すると、他の本を読んでも、「この本の言いたいことはこうだ」と一文で表せたり、「この章はこういう理由で置かれてる」というのが手に取るように分かるようになりました。

 

それほど、「座標軸」を持つことは自分の考えを論じる力を飛躍的に伸ばしていくのです。これは、テストのための国語の授業じゃあんまり鍛えられないかもしれませんね。

最近発売されたドラクエ11やってます。久しぶりのドラクエだし、にわかですがやっぱり面白いですね。

 

7と9しかやってない自分が言うのもアレですが、なんというか、ドラクエ本編はそれぞれナンバリング毎の「オリジナリティ」を大切にしているなという印象があります。

 

というのも、外伝の作品は結構やったんですよ。モンスターズjokerとかヒーローズとか。

その中で、「ドラクエ本編のお決まりの要素入れすぎ!」ということを非常に感じてたわけです。負けたときとか、キャラが仲間になった時の音楽もお馴染みのを大したアレンジも無く使い、宿屋とかお店の人の言い回しも本編のを思いっきりコピペするわけです。

 

昔のゲームはまだ手探りでしたから、「こんにちは、宿屋へようこそ。お泊りですか?それとも、夜まで休まれますか?」といった型にハマった言葉遣いや言い回しが多く、それが独特の味わいを生み出していたことは否定できません。音楽も、当時のゲーム機の表現力の限界の中で苦肉の策として制作されたものが定着しただけだと思うのです。

 

それを、外伝作品は惜しげもなく流用するわけです。画のクオリティやゲームシステムは当然半端じゃなく向上しましたから、そことの差があまりにもちぐはぐな印象を与えます。

もちろん、それがドラクエの伝統だという指摘はあるでしょう。しかし、PSvitaという恐ろしいほど高性能の、IT時代の産物とも呼べる媒体になってまで、誰かが仲間になったら必ず安っぽい(しかもやたら長い)音楽が削られもせず流れるのです。他にも、教会でも何でも、同じ施設では同じテーマが流れ、武器や敵の種類はほぼ全部本編と一緒、ジョークの傾向もクオリティも当時のを見事に再現。「外伝作品」というのを差し引いても新しい試みがあまりにも少なく、昔のを無批判に流用している様を見て、これはもはや「伝統」の弊害だとも思えるわけです。

 

ホリエモンが「寿司屋で10年修行とかバカじゃねーの」と言っていましたが、まさにそういった「伝統」を重んじる業界の保守性をドラクエの外伝作品には感じたのです。

 

でもやっぱり本編はそこを分かってますね(笑)ドラクエ11は、言い回しこそ型にハマっているものの、ゲームバランスやユーザビリティ(遊びやすさ)の点で確実に向上、改善が見られます。何より、新しいことをしようという気概を色々な面で感じるのです。

 

いきなり3Dになって、迫ってくる敵から逃げたり、主人公は死んでも戦闘後は復活していたり、2Dと3Dを選べたり。こっちサイドの気持ちをよくわかっています。

 

また、音楽なりキャラなりもどこか差別化を図っており、今までいたようでいなかったキャラがいっぱい出てきます。世界観は似ていながら、3DSという高性能機器ならではの自然の表現など、とにかく新鮮さを大事にした作りで、ファンも新規も飽きさせない工夫が随所に見られます。

 

そうやってひとつの作品としての「個」を確立したうえで、実は過去作品とは積極的に連携しているのです。ネタばれになるので言えませんが、過去作品の世界で少しだけ遊べる「体験版」的システムをストーリーに違和感を与えない形で盛り込んで、過去作品にも興味を持ってもらおうという意図を嫌味を感じないやり方で実現させています。こういった形でなら、本編の要素を取り入れるのは素晴らしいことだと思います。やっぱり本編は凄い…

☆ゲームは「なんとなく」やってると、あまりよろしくない

ゲームやったらバカになる。そうだとしたら、今の日本はゲームのせいで滅亡まっしぐらですが、そこまでゲームが世の中を潰してる印象はありません。

 

 自分は「ゲームは一人で漫然とやってたらあまり成長しない」だろうと考えています。ゲームの持つ要素として

 

 ・何も考えずにやっていても、ある程度楽しい

 ・ゲーム側に自動で仕切られることで、コミュニケーションや話し合いを介在しにくい。

 ・現実世界との関連は得にくいことが多い

 

といったことがあると思います。ゲームは漠然とやってても充足を得やすく、自分意外の人、物事との接触に乏しいため「ゲーム外の活動とリンクしにくい」という性質があるのではないでしょうか。だとすると、ゲームは「ただやるだけ」だと、そのプレイヤーを社会から孤立化させてしまう危険性を孕んでいます。

 

しかし、ゲームのそういった要素は、ゲームとの向き合い方、やる環境によって排することもできます。東大卒プロゲーマーの「ときど」さんは、ゲームに対する見方について、著書でこう語っていました。

 

「ゲームをやれば賢くなる」わけでもないが、「ゲームをやるからバカになる」のではない。

大切なのは、「どれだけ真剣に取り組むか」なのだと思う。真剣に取り組めば、どんなことであっても人は学べるのではないだろうか。ぼくの場合は、たまたまその対象がゲームだったということだ。

 

実際、ときどさんはゲームを通じた経験から多くのことを学んだというのは間違いないと思います。それを立証するエピソードが著書には多く載っていました。

 

中学生時代、ゲームセンターで遊んでいたら二十歳の金髪の兄ちゃんに声をかけられ、ラーメンを食べに行ったり、周りの大人にバカ勝ちしまくってはしゃいでたら反感を買ったり場が白けたり。大人になってからは、海外遠征の中で英語を身に着けたり、今や仕事として稼ぐ武器にすらなっています。東大受験や学会発表までしたほどの研究にも、ゲームで培ったプロセスが役に立ったと綴っていました。

 

ゲームを通してしか出来ない経験の中で、彼は多くの「生きる力」を獲得していったのです。なぜ彼はここまでゲームが自己の成長と結びついたのでしょうか?

 

☆ゲームを「探求的にやる」ということ

先ほど、ゲームは漫然とやっていても楽しいことを問題としました。

彼は、ゲームに「勝つ」という明確な目的を持ち、そのためのプロセスを考え、実行し反省するという、極めて探求的な姿勢でゲームに臨んでいました。自身の練習プロセスを「PDCAサイクル」に例えるほど、システマティックなやり方を構築することに成功していたのです。その結果、豊富な知識を入れる重要性に気づき、最短距離で攻略する方法を自分の中に体系化するまでに至ったのです。

こうして培った探求する能力が、受験攻略や研究に活かされ、素晴らしい成績を収めることに繋がったのです。

 

☆ゲームが「貴重な経験」を釣り上げるエサになった

ゲームをしているだけでは、あまり人と関わったり、自分の考えを深め得る経験は得られませんが、彼はゲームを家でしかやっていなかったわけではありません。ゲームセンターに赴いたり、大会に出ることで、人との関わりを増やしています。そして、中でも超強かった彼は、声をかけられたり、優勝したり遠征したりと、ゲームによって色々な機会をつかみ取っていったのです。

 

☆ゲームそのものにはあまり意味が無いが、ゲームを通じて人は学べる

自分の高校時代、物理の先生が「ゲームは頭悪くなるからやっちゃダメ。麻雀は頭使うからオッケー」と言っていました。しかし、これまで話したことを踏まえると、何をやったかではなく「どこで誰とどうやったか」が大事であることが分かります。

麻雀だって、一人で暇つぶしにネット対戦とかしてても大して成長にはつながらないでしょう。サッカーだって、仲間と関わらず、勝ちたいとも何にも思わずやってたら大して得るものは無いでしょう。逆説的に、ゲームだって仲間とともに、勝つ、もしくは何かしらの目的を持って探求的にやっていれば得られるものはあるということになります。

 

いかがでしたか?「ゲームなんてするんじゃない!」じゃなくて、「やるなら本気でやりなさい!」に変えるのも面白いかもしれませんね(笑)

☆ピグマリオン効果

「ピグマリオン効果」をご存じでしょうか。その人へ向けるまなざしによって、その人の行動が規定されてしまうそうなのです。

 

それを実証した実験がありまして…

 

とある小学校で子どもに知能検査を行った。その検査の結果を見れば、これから数か月で成績が伸びる子が分かるというものらしい。

その結果に基づき、検査官は教師に「これから伸びる子はアイツとアイツですよ」と報告した。すると、数か月後に本当にその子たちの成績が伸びた。

 

これは知能検査が正しかったことを証明する話ではありません。実は、その知能検査自体は何の意味もなく、検査官は子どもを無作為に選び、教師にいい加減な報告をしていたのです(笑)

なのに、なぜ報告された子は成績が伸びたんでしょうか?教師の期待を込めたまなざしがその子の学習を後押ししたり、無意識にその子の学びを促進するような振る舞いをしていたのではないかと言われています。

これぞ「ピグマリオン効果」と呼ばれるもので、教育現場ではかなり有名な話だそうです。

 

これは実際の社会でも起こりうることだと、元小学校教員で現在大学教授をされてる金森俊郎さんも指摘しています。

 

長いので要約しますと

 

街を歩いていると、チャラチャラした女子高生が三人並んで歩いていた。すれ違うサラリーマンは、その制服を着崩した格好を見て、明らかな軽蔑のまなざしをその子たちに向けた。それに対し、その子たちは「フンッ。」と目を背け、サラリーマンに敵意を示したのだった。

そのあと、清掃員のおじさんとすれ違ったとき、その子たちは「いつもありがとう。ご苦労さま」と声をかけた。おじさんは「おお、勉強頑張っとるかい?そのペットボトル捨てようか?」とその子たちに優しい返事を返した。すると、その子たちは「そこまで世話にはなれないよ。じゃあね」といって去っていった。

 

要約に多少の不備はありますが、大体こんな感じです。実際の社会でも、まなざしの持つ性質によって向けられた相手の行動に影響を与えることが分かります。

 

☆確証バイアス

ところで、「確証バイアス」ってご存知でしょうか?今日は心理学用語が多いですね(笑)

あることを確信すると、それを支持する情報ばかりを集め、否定的な情報を無視したり、集めようとしない現象のことだそうです。まさに、確証によってバイアスがかかるんですね。

 

例としては「アイツは良い奴だ」と思って接すると、良い部分しか見なくなり、逆も然りというわけです。経験がある方も多いのではないでしょうか。

 

「ピグマリオン効果」と「確証バイアス」。これらがどれだけの影響を持っているのかは分かりませんが、これらが示すのは、「ポジティブになったら、世の中もポジティブに返してくれるよ」ということではないでしょうか?

 

普段から物事の良さを見出すように心がければ、ポジティブな情報ばかり入ってくるし、周りの人もプラスの行動が増えます。また、そうする人が増えることで、世の中もポジティブになり、さらにポジティブに考える人が増えるでしょう。

 

 

今回は有名な話を二つくっつけただけで大した話もしませんでしたが、これを読む皆さんはそのいいところを探してください(笑)