天使のエッセイ -2ページ目

誕生日のわたしへ


3月21日はわたしの誕生日!クラッカー



正直な話、2月初めに突然入院した時には

あまりにも健康状態がひどい上、癌だということがわかって、
自分はこの誕生日まで生きていられるだろうかと疑問に思っていたのですが、

とりあえず生きてます。


もしかしたらこうやって、

とりあえず生きてる時間が重なっていくのかしら?



その間に奇跡は起こるかしら?




・・・・・・そんなわけで、今年の誕生日は

去年までとは全然違う思いで自分自身を感じているんだ。



わたしっていったいどんな人間なのだろう?・・・って、

通常のときとはちょっとまた違う視点で自分自身を感じようとしている。



そんなせいなのか、最近は子供の時の自分をよく思い出す。ラブラブ



大人になってからの自分とは違って、

とてもシャイでおとなしかった小さな子供時代の自分は

両親や祖父母からもそれをちょっと心配され、
守られていたかもと思う。



その状態は小学校4年生くらいまで続き、

その後は元気な子に憧れて、
自分も元気な子の振りをするようになったのだけど、

実は自分はそうじゃないことを見破られては落ち込んでいたなあ(笑)



その後、高校生まではわたしは不安定で不器用な女の子。


そして、それが大学生になると、
突然自信過剰のおしゃまさんみたいになった。



あの時代は天下を取った気分だったけど、

なんで突然あそこまで変われるのか、自分でも不思議だった。



大学生時代の自分の感覚が気持ちよすぎて、
その後もしばらくの年月はそのモードを保とうとし続けていったけど、

大人になるに従ってだんだんとまたスローダウンして、

少しずつ本来の自分が
心地よいモードで生きられるようになっていった気がする。




そうやって自分がとにかくまるで別人に生まれ変わるように
コロコロ簡単に変化していくことは

私自身のとても面白い特性だなあと思っていたのね。


なんたって、性格が変わるたび、顔まで別人のように変わるのよ!



おとなしくてシャイなわたしだったときはやっぱりそんな顔をしていたし、

天下無敵の自信過剰のイケイケだったときは華やか、派手系。



ダンサーの自分の顔

ヨギーニの自分の顔

ビジネスウーマンの自分の顔

天使と話す人としての自分の顔・・・・・・




でもね、


ふと思ったの



何が本当の自分なのかわからなくなるほどに
多重人格に見えた自分。


 
けれども、実はわたしのなかにある一番根本の部分では
 

 
わたしはコロコロ変わってなどいなかった!



シャイでおとなしかった時も、

自信過剰のイケイケだった時も、


わたしはいつも人に優しくて、

とても思いやりのある温かな人だった。ドキドキ


そして人間が大好きだった。ラブラブ



自分の送る愛がうまく受け取ってもらえなかったり、

自分は愛されていないなあと感じたりなどしたことで、


自分は人間が嫌いだと思っていたこともあったけど、

決してそうじゃなかった!



いつも人間が好きだったからこそ
人を愛したくてたまらなかったし、

人の力になったり、人に優しくしたり、

そういうことが好きだったんだ!



しかもわたしは相手を選ばない!


みんなから嫌われたり、
変わり者だからと引かれているような人たちに対しても

いつでも同じように優しいのがわたしだった。ラブラブ



また、一度つながった人はとことん大切にしようとするのもわたし。


以前は過ぎ去った時代の友達を追い続けるのは

過去に執着し、
自分の物事をレットゴーできない悪い癖なのではないかと
思っていたこともあったけど、

そうではなくて、
わたしは友達になった人は一人残らずみな自分にとって大切な人たちだから

できる限りそんなフレンドシップを大切にしたいと思うからこそ、そうなるんだ!



そしてわたしのそういう部分は

シャイでおとなしすぎて大人たちから心配された時代も、

天下無敵のイケイケ時代も、

いつも自分の中にあり、全く変わってはいなかった。


つまりそれがわたしという人間だったんじゃないかって!



それに気づいたら、なんだか自分の正体がわかったような気がして

なんだかちょっと嬉しかった。ラブラブ




そう!

人は変わる!


けれども根本的な部分では人は変わらない!



「わたしは誰?」というスピリチュアルの基盤の疑問の答えも

その中にあるかもしれないよね。




「愛を送る人」


そんな自分の称号に気づいた今年の誕生日


・・・・・・って思ったけど、


そういえば昔、
著書の「天使のレクチャー」が出版された後、

「愛の天使」と呼ばれていたことがあったことを思い出した。

ヌードのヘッド画像


二つ前の記事に、

このブログは実はヌードの写真から始まったっていうお話を書いたけど、

あの記事が原動力となって、
ついにこのブログのヘッド画像を最初のものに戻した。

自分自身がヌードでベッドに横たわる写真。


(・・・・・とはいっても、ちょっと絵画ふうに手も加えてあるので、

生々しいヌードではなく、
幻想的な感じのする素敵な写真だと思うのだけどドキドキ



実は何年も前からヘッド画像をこれに戻したいと思っていた。


やっぱりこれが一番自分のブログらしいと思っていたから。



それなのにずっと戻せなかったのはなんでなのかなあ?


久しぶりにネットでつながった昔の同窓生たちなどから

ジャッジされると思っていたからなのかしら?



わたしの育った時代の日本では
わたしみたいなものの考え方ってぶっとんでいたからね(笑)




で、ヘッド画像を変えてみると、


「やっぱりこれですよ!」


・・・・・・って感じるわけで、

それならばしっかりとこれでいこう!・・・って思います。



今年の誕生日頃に戻せればって最近考えていたので、

それがかなえられてよかった!




また、この画像を探している時に、

昔使ったその他の画像もたくさん出てきてね。


そういう写真も
記事の内容に合うものならば、

もう一度シェアしていってもいいかなあと思ったりもしました。


最初はそれはもうしないつもりでいたんだけど、

見てみるとやっぱり結構きれいでね。




わたしが人間の体にこれほどまでに美を感じるのは

多分ダンサーだったからだと思うのね。


体をツールとして使う芸術に自分を入れ込み、

一日中、自分自身や人の体を眺めながら暮らせば
体に対する感覚って自然とそんなふうになっていくのだと思う。


それはある意味、
体をエッチなものとしか取れないよりはずっと健全だとも思うの。



けれども昔はそんなわたしの感覚がわかってもらえなくてね。


わたしはぶっ飛んだ、超変わり者って思われて、

引かれるだけだったね(笑)




けれども、今の若い子達の多くは
結構みんな平気でビキニ姿でも、時にはヌードでも

人目にさらして自己表現をするけれど、


それを見ていて、必ずしも

「よかった」と思えないことも面白い。(笑)


「見せる」意図に違和感を感じるからなのかな?



なんかあまりの恥じらいのなさを感じると、

正直、

「日本人よ、慎ましやかさを一体どこに置き忘れたのか?」

・・・・・なんて思ったりもするわけね(笑)


欧米人にはあまりない
日本人の慎ましやかさや、ちょっとした恥じらいは、

実は結構魅力的でセクシーだったりもするから。ドキドキ



・・・・・・とはいえ、

たとえば
完璧な容姿をした美しいスーパーモデルに限らず、

すべての女性(人間)に
自分の体の美しさを楽しむ権利があると思うから、

それをオープンに恥じることなくできるようになってることは

やっぱりいいことだと思うべきなのだろうなあ・・・・・・ラブラブ



などと、「ヌード」を通していろいろ思った今日。





それでは最後に一枚だけ昔使った写真をシェア


(さあ、これを美しいととるか?エロいととるか? 笑)









コロナ騒動 in USA


コロナ・ウイルスが
日本にどれだけのインパクトを与えていたかということは

皆さんのFBの投稿を読んだり、
友達から様子を聞くなどして知っていたけれど、

ついにそれがアメリカにもやってきた!



学校の休校
多くのビジネスが強制的にクローズ
イベントのキャンセル

などなどがあらゆる場所で起こっており、

いつもはにぎやかな街の中もガラーンとしているようだ。


にぎやかなNYCで、
しかもこの春に向かって暖かくなっていく季節に

ガラーンとして、人がいないというのは

かなり想像を絶する状況。



そんななかではつぶれてしまうお店なども数多く出てきているよう。

なんだか悲しくなるよね。しょぼん




そして、そんななかでもわたしが今個人的に一番心配しているのが、

自分自身が通っていたニエヴェス・ラテンダンス・スタジオ


あんなに華やいで、成功の絶頂だったニエヴェス・スタジオが

こんな危機に遭遇するとは夢にも思わなかったので、
そんなことになるとは想像することもできなかったけど、


先日、スタジオの先生であるジェニファーとチャットで話していたら、

コロナの影響で夏のショーのためのリハーサルが
急激にスローダウンして、

この分だと夏のショーが起こるのかどうかもわからないと
彼女は言っていた。


スタジオのオーナーでメインの先生のウィル・ニエヴェスは
スタジオの経営をとても心配しているとも・・・・・。



その翌日、スタジオからのオフィシャルメールで、
しばらくの間両スタジオともクローズされるという知らせを受けた。
(ニエヴェスはNYのブルックリンとブロンクスに2軒のスタジオを持っている)




まあ、評判もよく、多くの人たちからサポートされ、
歴史もある程度ある(12、3年かな)ニエヴェス・スタジオだから

長引きすぎることなくコロナ騒動が治まれば
しっかりと復活できるだろうとは思う。



けれどもあのいつも多くの人でにぎわうニエヴェス・スタジオまでもが
こんな危機を味わうとは!


コロナ騒ぎの恐ろしさをひしひしと感じる。




よくよく思い出してみても、
今まで生きてきて、いろいろあったとはいえ、

街がこんな状態になるのを見るのは初めてかもしれない。


9-11の時も壮絶だったけど、

今度は相手がウイルスということもあり、
なおさら打つ手がなく、心もとない感じがする。




こういうことが起こるのは
人間たちにレッスンが必要なときなのではないかと

夫は言う。


確かにその通りなのかもしれない。



なんでもある便利で贅沢な環境を当たり前だと思って生きていると、

いつの間にか本当に大切なことを多々忘れていく。



なんでもない普通の幸せ。


おいしいものを味わう幸せ
心地よく眠れる幸せ
体を思い切り動かして気持ちよくなる幸せ
大好きな人とともに過ごす時間の幸せな温かさ


・・・・・・そんなようなことが当たり前になりすぎて

それらがかけがえのない「幸せ」であったことを忘れてしまって、


人はもっと!もっと!と欲張るようになる。



自分がすでに幸せであることを忘れて、
自分にはお金がないと嘆く。


それで愛よりもお金を追いかける。


お金を稼ぐことに引きずり回されて
その他のことが見えなくなる・・・・・・



けれどもそんな時に、
今起こっているコロナ騒動のようなことが起こると、

人は自動的に忘れていたことを少しずつ思い出していく。


そして、

「ああ!自分はすでに幸せだったんだな!」と思い出したりする。




・・・・・・とはいえ、


やっぱり一日も早く治まってほしいコロナ騒動ですね。



世界中に笑顔が戻る日を祈って・・・・・ラブラブ


実はヌードから始まったこのブログ


このブログ、今や完全に
わたしの気まぐれエッセイ集ってかんじになってるけど、

実はこのブログには面白いいきさつや、変化や、流れ、歴史がある。合格




わたしがそもそもブログというものを知ったのは今から15年位前のこと。


ちょうど「天使のレクチャー」の執筆を
何の出版の計画もなくしていたころのことで、

当時はとにかく文章を書いて、
それを発信するということがしたくてたまらなかった。



そしてそんな時、「ブログ」という新しいツールを知って、

これは自分のやりたいことに使えそうだなと思ったわけね。グッド!




ところがブログをつくり、
そこにただスピリチュアルな文章を書いていても

それを読んでくれる人などいない。


当時は今のように
誰でもブログをやっているような時代ではなかったけど、

それでもわたしの書くようなものを読みたい読者が

わたしを探し当ててくれる確立はとても低かった。



それでブログの仕組みなどを勉強して、
自分からもよそのブログに働きかけたり、

読者(当時アメブロは『読者登録』だった)になったりするといいのだなとわかり、

自分からもほかの人たちのブログを訪ねてみるようになった。



そうしたら今度はそこから
ブログを通して知り合った人たちと会話が弾んだり、

実際にリアルで対面することになったりするようなことも起こってきた!

ブログを通して楽しくてワクワクするようなことが結構たくさんあった。



特に当時は存在するブログの数自体も少なかったし

「アクセス数増やせ!」っていう感じの時代ではなくて、

もっともっとゆっくり、じっくり
ブログ自体を通して人々が楽しむ傾向が強かったので、


当時はいいブログもたくさんあったし、

「会ってみたい!」って感じるブロガーさんたちもたくさんいた。




けれども実はわたしのブログに読者やアクセスが増えたのは

そういった自分からの働きかけが原因ではなかった。



実はある時、わたしは自分のブログのテーマとして

まったく新しいものを思いついたのだった!



そしてそのテーマとは


「美しいヌード写真」キラキラ




わたしは30台前半の頃、

アート・フォトグラファーのモデルをしていたことがあって、

ヌードも結構撮ったのだけど、

自分で言うのもなんだけど、その写真がとても美しかったのです。



わたしはあまりセクシーでエロい感じの
プレイボーイ的写真というのは好まないのだけど、

アートに人のヌードを使った写真というのは大好きで、


たとえばわたしがモデルになったものも
肌にシマウマのような縞模様の入った白黒写真だとか、

セントラルパークのバックグラウンドに
ダンスのポーズをとったシルエットだとか、

腰の曲線を撮ったもの、

花を持ってポーズをして写真をゴールド仕上げにしてあったり、

その他、いろんなものがあったけど、
どれも本当に美しくてね。ドキドキ



でもなんか、日本人を前にそういう写真を使おうとすると、

なぜか羞恥心とか罪悪感みたいなものが起こるわけ。



でも、いったいどうして美しい芸術に対して

そんな感覚を感じる必要があるのか?



・・・・・・そんなことを考えていて、

日本人には体に対して妙にいやらしいとか、
恥ずかしいものっていう感覚があるからなんだよねって気づいたの。



それで、「じゃあ、それを変えるっていうのはどうか?」

・・・・・って思ったの。


もうちょっと体に対してオープンになって、


からだをエッチなものではなくて、

美しくて愛おしいものだと感じられるようになったらいいんじゃないかなあと。



それでそのテーマを中心に、

美しいヌードの写真や絵などを、
自分自身がモデルになったものも含めてアップしていくための

「心も体もはだかなブログ」という名のブログを作ったの。


そのタイトルの通り、
裸でいいのは体だけでなく心もっていうモットーを持ってた。

受け狙いに美しげに書くんじゃなくて、

ブログの中では正直な表現をしたいと思っていたね。


・・・・・・それがこのブログの始まりだったというわけ!


(ちなみにURLの kittiemommy というのは、
もともとこのIDをとった時には
猫の写真でもアップしていこうかなと思っていたから 笑)



自分としてはそういう変わったテーマのほうが面白いと思ってやったわけで、

アクセス数狙いではなかったのだけど、


ヌードのテーマで最初のスピリチュアルブログとは違って、
このブログのアクセス数はどんどんと上がって、

当時は全体のブログ数自体もそう多くない時代だったし、

あっという間に結構な人気ブログになっちゃったのでした。



ただ、それを始めた直後は、
それまでのネット友達たちはびっくりしちゃったりとかもあって、

ちょっと心地悪い思いもしたけど・・・・・・汗



けれども大半の人たちは
自分の思うように、思い切り表現すればいいよって言ってくれたね。合格




そのテーマにしてから、
ブログに来てくれる人たちもいろいろ幅広い層の人たちに変わって、

コメントのやり取りなども楽しくなった。


ヌードに誘われて男性がたくさんきたけど、

いわゆるいかにもエロいもの誘いのブログとも違うから

それで嫌な思いをすることなどは全然なかった。


わたしのセンスを好む女性たちもいっぱい来てくれた。

どちらかというとスピ系というよりは自由な感覚の人たちが多く来てくれたね。




でもまあ、わたしはもともとぐだぐだと長文を書きたい人なので、(笑)

自然とだんだん長い文章を書く日なども多くなってきたのだけど、
(心を裸にして 笑)


それを再び決定的に変えたのが

わたしの著書「天使のレクチャー」の出版!



それでスピ系の知らない人たちが
たくさんこのブログにアクセスしてくるだろうと予想がついたので、

出版の初日の前日には
「天使のレクチャー」の著者のイメージにそぐわないと思う投稿を

すべて削除したり、緩和させたりしたわけ。


ブログのトップ画像の
自分自身がヌードでベッドにうつぶせに横たわる写真も変えた。


(結局、自分自身も
ヌードに対して羞恥心や罪悪感をまだ感じていたということかな汗



そしてその後はまあ、今のような感じで

日々思ったこと、気づいたこと、学んだことなどをブログに書いていくようになった。



そうなってからも部ログの人気はキープしていたけど、

読者層は少し変わって、
スピ系女性、自由人系女性などが多くなって、それもまた心地よく楽しかった。


当時はわたしを神のように仰ぐ人もいたので、
ちょっと恐縮してしまったこともあったけどね。(笑)



でも今は、もうちょっと自分にオープンでいいと思うようになったので、

トップ画像、また昔のを使おうかしら?




とにかく、このブログを通しては本当にいろいろなことがあった。


わたしが日本で活動していた頃は
まだ日々のブログのアクセス数がかなり多く、

ブログからわたしのイベントやセッションを知って
来てくれる人たちがたくさんいた。


わたしに何かを感じて
ワークショップやセッションにまで来てくれる人たちというのは

やっぱり波動が合って
すぐにつながり合えるような感じの人たちが多かった。



そして、それと同時に、ブログを通していろんな人に絡まれたりもした。

インターネットトロールの嫌がらせとかも。



ブログもパワーを持つとその分
いいことも、よくないことも、いろんな事件を巻き起こすもの。




今はこのブログもぐーんと静かになったけど、

それでも長い年月、わたしの書くものが好きで読みに来てくださっている方などが
今も結構読みに来てくれていて、

ちょうど今のわたしに一番心地よい感じになっている。ラブラブ




わたしの書くものが好きという人

相当変わり者の宇宙人的な人だと思うので、


その特性を大切にして、

これからも是非読みにきてねラブラブ



(宇宙人波動、広げよう!!!)




PS

ブログはじめてからずっと、今でもこのブログ、

「心も体もはだか」というテーマは変わっていない!


今では日本人も体に対しては昔と比べると
どーんとオープンになったようなので、

「心もはだか」っていう部分が、

実は現在の日本人にとって
一番大切なテーマなのかもしれないよね。合格


天使いわく「真実の時は『今』だけ!」


Chemotherapy は最初からつらくて、
わたしのすでに弱っていた体はさらに弱って悲鳴を上げ、

これでは癌細胞より先に
自分自身が死んでしまいそうだと感じるくらいだった。


そんな状況の中でひどい不安障害の症状が出始め、

わたしは一日に何度もパニックを起こすようになっていった。




その夜、パニックが治まらず、脂汗をかき、過呼吸が続く中で、

わたしは必死で守護天使のサムを呼んだ。


サムは自分から呼ぶとなかなか現れてくれないことが多かったので、
現れてくれないかもと思ったけれど、

間もなくして現れ、その大きな腕にわたしを抱きかかえた。



サムは片腕でわたしを抱きかかえながら、
わたしの額から頬にかけてを柔らかく撫でた。

するとその瞬間にわたしはパニックから解放され、呼吸が楽になった。





「チャイナ(サムがわたしを呼ぶ名前)怖いんだね」




「怖いの。
あまりいろいろ考えないようにしているのに、

時々突然ものすごく怖くなって、
こんなふうになってしまうの。

それが苦しくてたまらない」




「チャイナ、きみは考えないようにしているつもりでも、
きみのマインドは過去へいったり、未来へいったりして、
自分自身を混乱させ、恐れさせているんだよ。

今はきみは体に大きな痛みを感じているときだからこそ、
それが余計に得体の知れない恐怖を巨大化させてしまっているんだ。

でも本当はきみの感じている恐怖は
きみのマインドが創り出している創造物であって、
実際に存在しているわけではないんだ」




「そうなんでしょうけど、どうしても怖くて、怖くて、こうなってしまうの。

これにいったいどうやって向き合ったらいいのかわからない」




「チャイナ、向き合う必要なんてないよ。
だってそれは単なるきみの頭が創った恐れでしかなくて、

それは実際に存在するわけじゃないんだから」




「向き合う必要がない?!本当に?!」




「向き合えないだろう?怖すぎて」




「そうね」




「でも、本当はそこにはなにもないんだよ。

漠然とした大きな怖さがあるだけで、
それ以外にはなにもない。

何もないものを恐れるのなんてバカバカしくない?

何もないものに向き合うこともバカバカしくない?」




「目からうろこが・・・・・」




「チャイナ、未来は今はまだない、ただの妄想なんだよ。

そして過去は事実だけど、すでに過ぎ去っていったもの。
それらは事実だから意味がないわけではないけど、
それに囚われすぎると苦しくなりすぎて身動きができなくなる。

『今』だけがここに実在する事実なんだ。

それはきみだけにとっていえることではなくて、
誰にとってもだよ!

たとえば未来に計り知れない可能性を持った子供たちにとっても、
または、過去に大きなことを成し遂げ、栄誉を得た人にとっても、

本当に存在している時は『今』だけだっていうことだ。」




「でもわたし、『今』が最悪。
もしも『今』だけが事実だとしたら、それだけでも恐ろしくなる」




「でもチャイナ、
その『今』を少しでもいいものに変えるということはできるんじゃないかな?

少なくともパニックアタックを起こして得体の知れない恐れに
自分のすべてを奪われてあがくよりは
いい時間に変えることができるんじゃないかな?」




「そうかもしれないけど、
自分でコントロールできないこともあるのよ」




「どうして?
自分のマインドなんだから、それは可能なんじゃないかな?

100%とはいわないけど、ある程度はね。

チャイナ、今、自分がどんなふうでいられたらいいと思う?」




「ポジティブでいたいわね。

ポジティブでいられる時は結構大丈夫なのよ。

だけどこの体調のひどさと気分の悪さだから
不安になりやすくて、すぐに転がり落ちてしまうの。

まったく希望が感じられなくなってきて、怖くてたまらなくなるの」




「それがわかっているのなら、
希望を見続けるよう、努力してみたらいいんじゃないの?

実際にその希望通りになるかどうかなんていうことは二の次にして、
ただそれを見ることにフォーカスする!

ただシンプルに
『希望』にフォーカスを当て続ける努力をするっていうことだよ。

転がり落ちて恐怖にあがいてジタバタすることは
実際、何の役にも立たないわけだしね。」




「確かにそうよね」




「それにね、希望を見つめ続ければ見つめ続けるほど、
それは実際に近くにくるものなんだよ。

これはただ単なるおまじない的な話ではなくて、
希望をみつめることでマインドがよりリラックスするから
病気も治りやすくなるんだ。

ストレスは最大の敵だよ。」




「確かに、ストレスで病気が悪くなるのなら、
逆にストレスが取れれば病気はよくなっていくってことになるわよね」




「チャイナ、
きみが今どれだけ身体的に大変かということはよくわかっているよ。

そしてどれだけがんばろうとしているかということもね。

でもきみはちょっとがんばりすぎなんだ。

がんばれるのはすばらしいことだけど、
がんばりすぎればまたそれがストレスになる。

もっとずるくなって、楽にがんばれる方法をさがしてみてごらん。

あんまり生真面目だとストレスが高くなる。」




「あー!そうか。
わたしまた生真面目にがんばりすぎているのか!」




「きみはまあそんな性質だからね。

でも今は特にそれやると大変になりすぎるからやめたほうがいいよ」




「そうか!がんばるっていうよりは

自分がもっと楽になる方法を見つけていったほうがいいってことか!」




「その通りだよ。」




「ありがとう、サム。

なんだかちょっその話を聞いただけで楽になれた」




「もちろん、楽になるっていったって、
それ自体が今のきみには簡単なことじゃないかもしれないけど、

ぼくの言っていることの意味はわかるよね。

たとえば昨日より今日の自分が楽だったのは何でだろう?

昨日と今日の違いは何だろう?

今、比較的楽なのはなんでなんだろう?

・・・・・・そんなふうに探りながら
できるかぎり楽に心地よくがんばれる方法、
過ごせる方法を生み出していくんだ!

やみくもにがんばること、
健康な時と同じ自分を求めること、

・・・・・・そういう野暮なことはするべきじゃない。

今の自分に優しくするんだ!」




「そうか!

わたしって本当に自分に優しくないのよね。
自分を叩く癖があるの。

どこかでそうしないといけないと思っているのよね」




「きみの特性はよく知ってるよ。

それがいつでも裏目に出るというわけでもないしね。

でも今のような時は特に優しくしてあげないと」




天使サムはそういうと、
わたしに小さな白いブランケットに包まれたものを手渡した。


中を見ると、そこには赤ちゃんのわたしが入っていた。

赤ちゃんのわたしは半分眠りながらこっくりこっくりしていて
なんだか可愛かった。


その赤ちゃんのわたしの柔らかでふっくらとした頬を撫でると、

赤ちゃんはそれに反応して軽く微笑むような顔をして気持ちよさそうに目を閉じた。

可愛い。


うっとりしながら赤ちゃんを撫でていると、
なぜか今度は自分の頬に温かく柔らかな愛撫を感じ始めた。



今度はいつの間にか私自身がその赤ちゃんになっていて、
大人のわたしに頬を優しく撫でられていた。

気持ちいい。




不思議で温かな自己愛の体験から目が覚めた時、


わたしはベッドの上で一人で白昼夢を見ているように座っていた。


サムを呼んだのは夜中だったと思ったのに、

なぜか昼間の温かな日差しのなかにいた。







スーパーモデルの友人


わたしのダンススクールのサルサの上級者クラスで

いつも一緒になるある女性がいた。



その人、アナはとても背が高く(178センチ)、素敵な女性で、

年齢はよくわからないけど、自分よりは上で、
多分50台後半くらいかしら?・・・と思っていた。

(実際にはもうちょっと上だったみたい)


ダンスもとても長くやっているエキスパートのようで、
手馴れた感じで、

彼女はスタジオのソーシャルには来ないし、
パフォーマンスもやらないけれど、

クラスはたくさん受けていて、

スタジオでもリスペクトされる存在だった。



最初、彼女はちょっと怖い感じがするので引いていたのだけど、

実際に彼女にはちょっときついところもあるとはいえ、
慣れてくると彼女は本当にフレンドリーで素敵な人で

大好きになっていった。


彼女はクラスにも早めに来ていることが多く、

わたしはスタジオ入りすると

まず一番初めに彼女とハグするようになった。



わたしたちはダンス以外の話はしないので、
お互いのプライベートなことはほとんど何も知らなかった。


ある、別の友人が彼女と話して
彼女はフィリピン人で、不動産のブローカーをしているようだと言っていた。


あと、先生と話しているのを聞いて、
どうやら彼女には息子がいるようだということくらいは知っていた。



けれども、最近になって

彼女に関してビックリするようなことがわかった!



なんと彼女は Anna Bayle という、

70年代後半から90年代初めにかけて大活躍した

スーパーモデルだったのだ!



インターネットで調べてみると、

彼女は当時、最も高給取りだったモデルの一人でもあり、

アジア人のスーパーモデルの第一人者だったのだとか!


Bowie の奥さんだったスーパーモデルの Iman
わりと近めの年代のようで、

一緒に同じ runway model のお仕事したりもしてたみたいね。



彼女の当時の写真やファッションショーのビデオなどは
たくさん残っているのだけど、

本当に息を呑むほど綺麗!


美しい長い黒髪に美しい肌

完璧なプロポーション!

完璧に美しいアジア美人!

立ち居振る舞いや、モデル特有の体での微妙な表現の美しさ!




現在のアナのエネルギーはちょっとモデル時代とは違うけど、

彼女の背の高さや、センスや、
エレガントで自信に満ちた立ち居振る舞いなどには

なにか普通の女性とは大きく違うものを感じていたんだ!




また、もうひとつ彼女の素敵だと思うところは

彼女はスーパーモデルとして活動後、

結婚して、息子を生み、
スーパーモデルからスーパーママになっているところ!


若いアナが上半身裸で小さな息子を抱く写真は本当に美しくてね。


そんな写真を見ていると、
ああ、その頃はまたきっとアナは、
子供の顔を見ながら、自分自身の新たなる世界を見て、

ワクワクしていたんだろうなあとか想像すると
こっちまでワクワクしてきちゃったりしてね(笑)



実際にアナにはモデルの顔とママの顔があって、

それは同一人物ではないのではないかと感じるくらいに違うの。


けれどもどっちの顔も素敵でね。



たとえばさっき話しに出てきた
スーパーモデルの Iman の顔はひとつっていう気がするんだけど、

アナにはスーパーモデルと、スーパーママと、
そしてどうやらスーパーブローカーの顔もあるみたいね。

(サルサも踊るし!)

そういうところがまた素敵だなあとわたしは感じるわけ。グッド!合格



アナはきっと若くしてモデルで成功して
華やかな舞台をたくさん踏んで、

多くの人たちからたくさんのアテンションを受け、

あの時代のニューヨークを
スーパーモデルの名とともに大手を振って歩き、


そして今度は結婚して子供を生んで、

子供のあどけない可愛らしい顔を見ながら
新しい時間、新しい世界を楽しみ・・・・・・


そんなふうに生きてきたのだろうなあと想像すると、

なんだかわたしまでワクワクしてきてしまう♪ラブラブ




・・・・・・そんなかんじで、友達の正体を知って

妙に興奮を感じているわたしなのでした。




人間ひとりひとりに

いろんな生き方があり、いろんな人生がある!



思い切り生きてきた人って本当に素敵だねキラキラ





Anna のブログ




病気と精神との闘い


Chemotherapy のトリートメントが始まってから、

それまで以上に体がつらくなり、

それに伴って、精神状態がかなりおかしくなってしまった。しょぼん



あまりいろいろ考えないようにはしているけれど、

今のわたし、自分自身の生死と向き合っているわけだから、
精神がおかしくなるのも当然といえば当然。



最初のChemotherapy のトリートメントの後から
不安障害とパニック障害が頻繁に出てくるようになって、

それがあまりにもひどいので、

anti-anxiety drug (抗不安薬)を試してみることにした。


ただでさえドラッグづけなので、
できるだけこれ以上薬は取りたくないと思っていたけれど、

この期に及んだらもう、
できる限りのヘルプを受け取ろうと考えたからだった。



わたしは普段は
薬局のカウンターで売ってる薬さえ取るのが嫌な人だったので、

まさかこんな薬を試すことになるとは夢にも思わなかった。



抗不安薬は精神をリラックスさせるので
わたしの不安障害やパニック障害を緩和するだろうという話だったので

それでは試してみようかと思ったのだけど、


とにかく、強い薬で散々いやな目にあい、

この薬できっと楽になるだろうと期待しては

副作用に我慢できず続けられず、
期待を裏切られることばかりだったので、

その抗不安薬も試すのに大きな抵抗があった。



けれども二度目のChemotherapy のトリートメントの翌早朝、

またひどいパニックアタックを起こしたため、

その抗不安薬を飲んでみた。



薬を飲んだ直後は確かによく眠れた。



ところが、翌日、ずっと夜まで
脳が半分眠っているような状態なことに

わたしは余計に不安になってしまった。



脳が働かない!


ブログを書きたくても書けない!

人が書いたものを読んでいても、頭に入ってこない!

シンプルなゲームさえできない!



しかも薬の効き目が長いので、

いつまでたってもずっとそんな感じで、

薬を飲んだのが朝だったため、
その日、結局夜中までそんなかんじだった。



ドクターはこの薬を毎日飲めというけれど、

こんなの飲んで、毎日この状態だったら

死んだも同然?!


とてもではないけど、そんなの嫌だった。



夫はこう言った。


「世の中の多くの人たちは
自分の人生、リアリティーを無視して

何も考えずにゾンビのようになりたいから、
こういう薬の中毒になるけど、

あなたはそうではないんだ。

悪かったね。
この薬がそこまでするとは知らなかった。

取りたくないなら取らなくていいからね。」



もしも何も考えずにボーっと生きるっていうのがあの状態だったら
恐ろしいなとわたしは思った。

そんなのわたしには絶対に無理!




やっぱり不安障害やパニック障害などが出てきた時は

わたしの場合、薬に頼るのではなくて
精神自体を強く持つ訓練をすべきなのだなと改めて思った。



たとえば今の場合は

「ポジティブなマインドを保つ訓練」が必要ね。



「絶対にがんばって治すんだ!」

そのマインドのステートが保てれば、崩れることなどない。



そう思える時もあるけど、

時には「もう絶対に駄目だー!!!」ってなってしまうから、
パニックアタックがくる!


でもたとえ現状がどうであれ、

その「絶対にがんばって治す!」という
ポジティブなメンタル状態に保っておくに越したことはない。


実際にそのメンタルステートがいろんな部分を引き上げると思うし。



今のわたしの状態は
それが難しいほど危うい状態であることは確かだけど、

それでもそのステートに保つ訓練が絶対的に必要!




さあ、じゃあそれをどうやってやろうか?



EFTを使う。

できる限り自分が心地よい環境を作ってストレスを落とす。

アファメーションを使う。

書いたり、描いたりすることに時間を使う。

エトセトラ・・・・・・


いろんな方法があると思うので、

それらを全部思いつくだけやるといいのかもしれない。




夫も言っていたけれど、


「この病気との闘い、

実はそのなかのとても大きな部分は

自分自身の精神との戦い」



本当にその通りかもと思う。


体の苦痛との戦いもつらいけど、

実は自分自身の精神との戦いのなかにそれ以上のものがある。




病気に関してだけではなく、

それはあらゆることにあてはまっているかもしれないよね。



人生の中ではいろんな問題と直面していくものだけど、

問題自体の解決のための戦いもさることながら、

本当の戦いは自分自身の精神との戦いなのかも。





わたしはよくなる!

わたしは奇跡を起こす!

よくなってもっともっと愛することを楽しむ

この美しい世界を楽しむ


わたしは強い!

わたしの心は強い!

わたしはもともと強い体を持って生まれてきた!

わたしはよくなる!

そしてわたしは今日という日を平和に生きるラブラブ



幼馴染の親友の誕生日

愛し上手になりたいなら恋をしよう!


「Coco は恋多き女だったんでしょ?」


・・・・・・そうよく聞かれて、


自分でも自分はそうかなあと思っていたんだけど、

よく考えてみると、実はそうでもなかった(笑)



大学生の頃とか、ニューヨークへ渡った最初の数年は

確かによく男性からデートに誘われて出かけていったものだったけど、


だからといっていつも恋におちるわけではなかった。

わたしは一夜の恋とかするタイプでもなかったし。



実際に「彼氏」と呼んでお付き合いした人たちもそれほど数はいない。


・・・・・・まあ、わたしは二度結婚しているので、
時間のギャップ上、多少はいたけど、

Sex and the City の登場人物たちのように

お盛んなわけではなかった(笑)




わたしはそもそもがそんなに惚れっぽいタイプではないのだと思う。


この人、いいなあと思ったり、胸キュン状態になったりすることはよくあっても、

その先に行くためには時間がかかるのかも。


男性を好きになるためにはケミストリーだけではなかなか満足できない。

何か、その人の人間性のようなものが
自分のハートをつかまなくては、なかなか相手に惚れ込まない。


ただ、一度ハートをつかまれ、惚れ込むと、とことん惚れ込むドキドキ



けれども今までそこまで惚れ込んだ人は今の夫だけかな。ラブラブ




でも、わたしは「恋」に関しては、

とてもポジティブな感覚を持っていて、


「どんどん恋しましょう!」ラブラブ


・・・・・って、いつも人にもすすめたくなる人なの。



なぜかというと、「恋」することからは、

「人を愛すること」を自然と学べるから。合格



それは「友情」からは学べないのかと言われると、

もちろん、学べるんだけど、


そもそも「好き」という気持ちに突き動かされることで始まり、
「愛すること」そのものにフォーカスする「恋」は、

やっぱり「愛すること」を学ぶ上ではとてもパワフルだと思うのですよ。グッド!


相手をよく理解して、相手のあらゆる部分を受け入れて、

相手も自分も幸せを感じられるリレーションシップの形を探し、
長くよりそっていくていく努力をするっていうことだからね。



だからただ単に「一人より二人がいいよ」って理由からだけではなく、

わたしは恋をすすめたくなるのです。ドキドキ




で、どんな恋がいいのかというと・・・・・・


何でもいいと思うのですよ(笑)



もちろん、本当にいつも心の底から愛せる人といい恋をしたり、

ひとつの恋を長時間温め、大切にすることができた人たちは、


自然と優しく幸せで魅力的になって、

「愛すること」のエキスパートになっていくけれど、



たとえば、
惚れっぽくてすぐに誰でも好きになっちゃうっていう人は否定されがちだけど、

それもそれで悪くないと思うの。


なぜならその人は男性の素敵さに敏感だってことでしょ?


人の「いいところ」を感じて、その人を好きだと思えることは
ある意味、大きな利点というか、特技というか、

決して悪いことではないと思うの。


それに、短い恋をたくさんすることからも

いろいろなことが学べると思う。


そういう人たちは幸せになれないというのも、

偏った感覚からくる嘘だと思う。




また、頭でする恋。

たとえば仕事、年収などの条件から相手を選ぶタイプの恋。

もしくはお見合い結婚などもいいと思うのですよ。

結婚相談所を使うとかもいいじゃない。グッド!


なぜならそういうタイプの恋愛や結婚からも

人間関係や「愛すること」についてを
たくさん学んでいくことになるわけだから。


人と長く付き合っていこうと思ったら

やっぱり愛することを学ばずには続かないと思うのです。



わたしのあるクンダリーニ・ヨガの先生は

アレンジド・マリッジ、
第三者からアレンジしてもらった相手と結婚して、

その結婚生活は25年~30年近くにもになるけれど、
子供もいて、とても仲のよい夫婦で、

恋愛結婚の人たちよりもずっと結婚がうまくいっていたの。


結婚当時はお互いを知るために苦労したって言ってたね。

だって、お互いのことを何も知らなかったわけだからね。


でも結婚というコミットメントのなかで、
相手とどうしたら幸せに仲良く暮らしていけるかっていうことを

じっくりと年月をかけて追求してきたんだろうね。




それも恋


あれも恋



「相手を愛する」ということが大切にされている限り

恋の形もなんでもありってことよドキドキ



だからこうじゃなくちゃいけない、ああじゃなくちゃいけないと、

変に理想主義的になりすぎずに、


シングルの人たち、

気軽に、自分の気持ちの赴くままに恋してみよう!


年がいくつだって関係ないよ!



「わたしこの年にして結婚してない」って?

ラッキーじゃない!

恋ができるわよ!ドキドキ



「愛することを学ぶ」とか小難しいことを抜きにしても、

シンプルに恋はワクワクして楽しいしねラブラブ



Enjoy your life! ラブラブ


あなたの愛の送り方は?


この世に生きるものにとってもっとも大切なことは

「愛を送ること!」



昨日の記事では

わたし自身は「書く」ということを通して愛を送ろう!


・・・・・・って書いたけど、


それでは私以外の普通に暮らしている人たちは

どうやって愛を送ればいいのかな?


・・・・・なんてちょっと考えたのですよ。




わたしは今現在、尋常ではない究極的な状況の中にいるので

「愛を送る」ということにフォーカスしてものを考えられるけど、


自分自身も普段はそうだったように、

日々やることに追われ、
レントやビルの支払いに追われ、

日々のストレスに頭をかきむしりながら生きていると、


「愛を送る」なんて、

現実離れしたたわごとのように聞こえるわけよね。



けれども、わたしのブログを読みにきてくださる方たちは

スピリチュアルなこととか、
愛のある生き方に興味を持った人たちがほとんどだと思うから、

それでもきっと「愛」を追求しているんじゃないかと思うの。




それじゃ、そういう人たちはどうやって愛を送るのか?



その質問の答えはひとつ!


自分のごく普通の日々の中のあらゆるシーンで
 

 
愛を送ればいいだけ。



たとえば仕事で関わる人たち

お客さま、同僚、上司・・・・・・・


そういう人たちとの係わり合いの中で愛を送る!


家へ帰ってきて会う、家族に対して愛を送る!


たまたまその日、話したり、関わりあったりした人に対して愛を送る!



愛を送るっていうのは特殊な時空ですることでは全くなくて、

むしろ、そういった日常の場ですべきことなのだと思う。



相手がそれに感謝するかどうかとか、

そんなことには全くこだわらずに、

それを自分のミッションのように、
もしくはちょっとゲーム感覚でそれをやってもいいかもしれない。


もちろん、相手が自分のあまり好きじゃない人だったりすると
難しかったりもするけれど、

それでもちょっと遊び心も交えてトライしてみると面白いかも。




相手を愛して大切にすること。
 

 
自分の思考や気持ちにオープンになって相手と接すること。
 

 
「ありがとう」、「ごめんなさい」
 
そしてできれば「愛してます」も惜しまずに表現すること。



・・・・・・そういう愛のある人との接し方は

仕事であれ、家庭であれ、どんな状況の中でもプラスになるはず!




そもそも、仕事というのは

人や社会が必要とすることのために
自分の時間やエネルギーを費やしているわけだから、

それだけでそれは愛を送っているということ。


あとはそれをもっと意識的に愛につなげていけばいいだけ!



たとえば仕事をしている最中に

「ああ、わたしは愛を送っているんだな」と心の中でささやくだけで、

ちょっと自分の仕事に対する感覚が変わるかもね。


「いやだなあ、早く終わんないかな」って思いながらやっている時は

とても愛を送っている気分にはなれないだろうけど、

意識が変わると感覚はガラリと大きく変わるかも。




そしてもっともっと思い切り愛したい時は

自分の大好きな人とコンタクトをとってみる。


自分の好きな人が相手なら

ハートを開くことも、

「ありがとう」、「愛してます」と言うことも

ずっと簡単で、違和感なく、自分自身も気持ちいいよね。




とにかく、一番大切なことは「愛する」こと!


簡単に言えば、
自分自身が愛して、自分自身が気持ちよくなれば、

それで100点満点なのです!



だからあまり難しく考えず、やってみましょう!

どこにいても、誰といてもできるはずです!



それに自分自身が愛して、自分自身が気持ちよくなっている状態は

必ず相手も気持ちよくしているはず!


だからあまり相手の反応とかは気にせずに

楽しむ感覚で是非やってみてね!




そして「愛される」の方は・・・・・・


「愛する」ことができれば「愛される」は自動的にそれについてくるので、

特に意識しなくてもいいと思いますよ。



世には「愛される」ことを先にしようとして、
その方法論とか考える人たちもいるけれど、

それだと多分、順番が逆なのよ。


「愛される」というのは受動的なことだから

自分自身でコントロールすることはできないしね。



能動的な「愛する」のほうにフォーカスの100%を当てましょう。


そうすれば、

あらびっくり!


あなたはいつの間にか愛される人にもなっていることでしょうドキドキ



「愛すること」が一番大事!ラブラブ