なんかこのブログ、興味深くない、面白くない方向に行っちゃってますかね?
このような経験を通じて、組織を去ってから数年を経ていたとはいえ「エホバの証人教理について非常に強く感じるようになった点」について、3つほど書きたいと思います。
①復活について
まず、司法解剖の場にいて最初に最も強く感じたことは、「復活」などはあり得ない、ありえようがないという決定的な確信でした。
世にいる圧倒的大多数の人は、「人のご遺体」を目にすることはないでしょうし、
そうした機会があるとしても、お葬式の「眠るような姿で」棺に入った故人のお姿ではないかと思います。
私の場合、初めて司法解剖に立ち会った際には、無残に人体が破壊され、完全に冷たくなり、すでに死後硬直期間も過ぎて分解が始まっていたご遺体に直面することになりましたし、その後、そのご遺体が徹底的にいわば「切り分け」られゆき、「人が人でなくなっていく姿」を最初から最後までその目に焼きつけることになりました。
その場面はまさに「凄惨を極める」という表現しかしようがなく、仮に何も知らずに途中から解剖室に入る人がいれば、即座に卒倒するのは間違いないのではないかという場面でした。
そのような、ぼかしも目隠しもまやかしもない「人が死んだ後の本当の姿」、「人が人でなくなってゆく経過」を見るときに、
・「このようにして死んだ方が、どのような方法で『復活』などすると信じられるのか」
・「仮に『復活』するとして、では現に間違いなく亡くなられているこの方のご遺体、この方ご自身はどうなるというのか」
・「この方と全く同じ外見・またく同じ記憶を持った人間がもう一人できるというのか、仮にそうだという説明だとしてもそのようなことが起こりうるはずがない、仮にそうだとしてもこの方が経験した非情な苦しみ、悲しみはどんな方法でも埋めようがない」
と、非常に鮮烈に感じ続けました。
多くのエホバの証人、ほとんどのエホバの証人は、
信じられないほど簡単に「復活」などという教理を信じ、
通常ではありえないほどの危険に身をさらしたり、
或いは「人間の死」というものに対して、マヒした感覚・無頓着な姿勢を示します。
実際に、「人の死」の現実がどのようなものかを目の当たりにすれば、
なんらの説明もないしかも間違った教理に基づく「復活」などという概念への信仰は、間違いなく吹っ飛ぶものであると、
少なくとも私は感じました。
②エホバの証人の発想そのものについて
また、「人の死が決して取り返しがつかない決定的なものである」と痛感するにつれ、エホバの証人の教理全体についても、どれだけ恐ろしく危険なものであるについての確信がゆっくりゆっくりと、しかし改めて極めて重くのしかかってきました。
人は、遅かれ早かれ、いつか死にます。必ず死にます。
そうであるからこそ、一人一人が自分の人生を生き抜き、自分の与えられた時間の中で幸せを積み重ね、そのようにして自分の人生に納得していつか永遠に目を閉じるのが、本来「人」が求める姿であると、私は考えるようになりました。
そして、そうであるからこそ、不慮の死、自然死以外の死を何とか避けるように個々の人間、社会全体、人類全体が気高い努力を続けているのではないでしょうか。
こうした考えからしてみれば、「エホバの証人」の教えはまさにこれと真逆であり、「人が本来目指すべき生き方」を真っ向から否定する極めて異常で危険な教えであるということを、鮮烈に意識するようになりました。
・エホバの証人は、「現在の古い体制」は間もなくすぎるのだから、すべてのことは「新しい体制」に後回しにするよう教えます。
・そしてその間に、個々の人のもの、ほかのだれのものでもない貴重な人生のすべてを「組織」に捧げるよう教え、誘導し、強制します。
・さらには、輸血の拒否、死に至るまでの忠誠を要求することにより、或いは、歪んだ教えにより自裁に追い込むことにより、文字通り命そのものを奪ってきているのではないでしょうか。
どれだけの人がこの歪んだ巨大な組織に人生の大部分を奪われ、ある場合には、命そのものを奪われてきたのでしょうか。
もう一度言います。
エホバの証人は、「現在の古い体制」は間もなくすぎるのだから、すべてのことは「新しい体制」に後回しにするよう教えます。
そして、「その時」はもう間近である、自分たちが生きている間に来る、と保証します。
しかし、人は必ず、絶対に、死にます。
・ラッセルは、紆余曲折の後、最後は「自分たちは死ぬことなく1918年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。
しかし彼自身は、その前の1916年に汽車の中で死にました。
そしてこの時の彼の教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。
・ラザフォードは、紆余局の後、最後には、「自分たちは死ぬことなく1941年か翌年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。
しかし彼自身は、その予言の最中の1942年1月に癌で死にました。
そしてこの時の彼の教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。
・ネイサン・H・ノアやフレデリック・フランズたちは、「自分たちは死ぬことなく1975年に天に行く」と自信満々に言い切り、教えました。
しかしこの予言も外れ、ノアはその2年後、フランズはその17年後に、恥をものともせずに死にました。
そしてこの時の彼らの教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られています。
・旧体制の統治体(1977年までに任命された成員)は、「1914年の意味を理解した世代が死に絶える前にこの世は終わる」と自信満々に言い切り、教えました。
しかし、この予言は成就せず、2010年までにこの連中は全員死に絶えました。
当初の彼らの説明によれば、「この世代は」現在の2020年には121歳になるはずで、彼らが大声で言っていた「この世代」はすでに過ぎ去りました。そしてこの彼らの教えは、今はエホバの証人自身により葬り去られ、奇妙で合理性のかけらもない「2つの重なる世代」の教えに入れ替えられています。
・「2つの重なる世代」の教えを考え出した新体制の統治体のうち、ガイ・ピアースは2014年に死にました。
ほかの連中、比較的歳の若いマーク・サンダーソン、ジェフリー・ジャクソン、ケニス・クックも必ず死にます。必ず死にます。
そして、これらの連中よりもはるかに高齢ではるかに経験のある多数の「大群衆の信者」はさらに大量に彼らよりもずっと早く死ぬでしょう。
いったい何度、このような欺瞞を繰り返すのでしょうか。
そして、その間に、何人の人、何十万人何百万人の人の人生を、この組織が奪い去るのでしょう。
「いつか必ず死ぬからこそ、幸せで輝いた人生を生き抜くべき一人一人の人生」を、いったいいくつ踏み潰し続けるのでしょう。
そう考えずにはいられません。
※続きで「③輸血拒否について」を次回書きます。
こうした「様々な非業の死」に数多く直面し、その時その時に自分が感じたことを書きたいとおもいます。
(※同じことを繰り返します。ここに書く内容は、法医学の教育内容につき事実を書き記す内容、そしてその内容から「人生をどう考えるべきか」についての考えを書き共有する内容ですので、アメブロ規約に違反するものではないと考えます。とはいえ、読む方の状況により衝撃を与える内容になる可能性があるものといえるかもしれず「人の死」というものについての情報に触れたくない方はお読みにならないことをお勧めします。)
【法医学を通じて感じたこと】
〇自裁
法医学においては、「自殺(自裁)による死か他殺による死か」という点がすべてのスタートになりますので、本格的な講義に入って最初に学んだのは「自殺(自裁)」についてでした。
自裁される方は、そのほとんどが人生の最後の瞬間、通常の精神状況ではないため、
「なぜこのような場所で」「なぜこのような方法で」と思うような場所や形でこの世を去る方が多くおられました。
そうした、ある意味異常と思える場所で、ある意味普通では考えつかないような方法で自ら自裁した方の亡くなった後の姿を現に目にし、その方の最後の服装や持ち物などを目にするときに、そこから伝わってくるものは、まさに「底知れぬほどの深く悲しい絶望」でした。
人は、死にたくて死ぬ人はほとんどいません。自裁する方であっても、死ぬことは恐ろしく、とてつもなく嫌なことですが、それでも「死」という一番いやなものよりもなお生き続けることのほうがさらに辛いために自裁を決断され、そうした人生最後のあまりに悲しい決断に至る場合が少なくありません。
この世を去れらた後のご遺体の姿を見るときに、
そうした「圧倒的な深い絶望」がいやおうなしに強烈に伝わるとともに、
そのような最も悲しい決断に至ったそれまでのその方の人生の苦しみ、悲しみを考えると、表現のしようのない強烈な感情に押しつぶされそうになりました。
〇その他のあまりに深刻な事実
さらに法医学は、「人の死のメカニズム」について学ぶ学問ですので、
およそもっとも苦しくない亡くなり方と同時に、「最も苦しい亡くなり方」「最も苦しい死因」についてもいやおうなく学ぶことになります。
そして実際に、そうした「最も苦しい亡くなり方」をされた方のご遺体と直面することもありました。
さらに言えば法医学は、「他者から命を奪われたケース」を対象にする学問ですので、
そうしたおよそ最も苦しい亡くなり方をする前に、凄絶としか表現をしようがないような経緯にさらされたたうえで、さらに最後に命を落とされた方のご遺体にも直面することになりました。
・いったいこの人が何をしたからと言ってこのような他界の仕方をしなければならないのか
・いったいどのような理由があったら、このような他界の仕方が許されるというのか
そのように感じさせるケースに何度も何度も直面しました。
〇司法解剖
机上の講義だけでなく、実際の司法解剖に立ち会ったときに、自分の人生観は非常に大きく変化しました。
つい少し前まで話し、笑い、日常の何気ない一つ一つの小さな出来事に幸せを見出し、普通の生活をしていたであろう方が、
冷たく物も言わないご遺体になり、そして二度と以前の姿に戻ることは絶対に不可能な状態で、死後硬直し、腐敗や分解が開始し、そのような状態で目の前に横たわる姿を想像できる人は少ないと思います。
そこに立ち会うだけ、それだけでも「救われない非常に深い感情」に飲み込まれることになります。
現実のご遺体に面会するその事実だけをもってしても経験のない感情が押し寄せますが、
「司法解剖」が実際に始まると、死因を特定するためにまさに「徹底的な」解剖がなされ、さらに別の圧倒的な感情に飲み込まれます。
私が初めて立ち会った司法解剖は、開始から終了まで実に13時間に及び、その間、座ることも食事もとることも、休憩することも許されず、徹底的かつ執念とも感じられる姿勢で、複数の医師が全力を注いで死因の特定に全精力すべてをささげていました。
司法解剖ですので、当然のことながら、ご遺体の体のすべては科学的手順に従いありとあらゆる部位が取りだされてゆき、時が進むにつれて、みるみる「人が人でなくなってゆく」過程とその瞬間瞬間をまざまざとこの目で見ることになり、そこで起きている事実の底知れぬすさまじい意味を体感することになりました。
〇すべてを通じて感じたこと
こうしたあまりにも重大な事実、しかし「そこに現に存在する現実」を何度も何度も目の当たりにしました。
その具体的な内容を全て書ききることなどできないですし、また、そうすることは適切ではないと思いますが、
こうした経験を通じて、自分の心と思いに克明に刻まれたことがいくつかありました。
・その一つは、「人はなんとあっけなく死んでしまうのか」という点についての事実でした。
ついさっきまで話し笑っていた人がみるみるうちに急変し亡くなるケースや、危険な場所に足を踏み入れてすぐに亡くなってしまうケースなどが世の中には非常に多く存在します。
シートベルトさえしていれば助かった命、歩いている場所が数メートルずれていたら助かった命、交通機関に乗るのが10分ずれていたら助かった命、そうした命が失われるケースも多く知りました。
どれほど短い時間の大量出血で人は助からなくなるのか、どれほど小さな温度差の中でしか人は生きられないのか、どれほど短い時間の酸素供給の停止で人は生きられなくなるのか、そうした「現実」を知ることで、人の死がいかに簡単に引き起こされてしまうのかという点が、極めて重い事実として心と思いの中に残りました。
・もう一つは、あまりに当たり前のことですが、人の死がどれほど重大であるかという点であり、決して取り返しがつかない決定的なものであるという点についての圧倒されるような現実感が思いと心の中に強く刻み込まれることになりました。
※こうした経緯を通じて、「エホバの証人教理について考えたこと」、そして「神の存在について考えるようになったこと」を次回以降書きたいと思います。
これ以降のブログでは、
ⅰ.法医学の授業で学んだことについて書き、
ⅱ.それを受けて自分がどう感じたか、
ⅲ.そこから人間の人生・神・エホバの証人教理といったものについてどのような結論を得たか、
順に書いてゆきたいと思います。
(※これらは、大学院という高等教育機関において提供された、確立された学問(法医学)の教育内容につき明確な目的をもって事実を書き記す内容ですので、アメブロ規約に違反するものではないと考えます。とはいえ、読む方の状況により衝撃を与える内容になる可能性があるものといえるかもしれず「人の死」というものについての情報に触れたくない方はお読みにならないことをお勧めします。)
【法医学の内容】
法医学は、究極的には「司法解剖をして死の原因を突き止めること」が目的ですが、
その学問はまさに、「人の死のプロセス」そのものについての学問でした。
そこでは、
①「人はどのようにして死に至るのか」
②「死んだ後、人体はどのように変化するのか」
といった点を、まさに徹底的に学ぶことになりました。
【人の死の原因】
「人の死」にはいろんな原因があります。
老衰や病死などの自然死以外の不慮の死があり、その原因には失血死、溢死、窒息死、溺死、焼死、圧死、凍死、餓死、落死、轢死、薬物・アルコール中毒死、一酸化炭素・ガス中毒死、熱中症や外傷性ショックによる多臓器不全、外傷性心不全、はては感電死、爆死、全身挫滅による即死や獣害による死など様々なものがあります。
こういった様々な死因について、どのようなメカニズムでどのように人が死に至るのか、その過程を大学院では学びました。
そして、司法解剖で対象となるご遺体は、すべて犯罪にかかわるご遺体でしたので、
刺殺されたご遺体、絞殺されたご遺体、銃で撃たれたご遺体、撲殺されたご遺体、そしてありとあらゆるその他の人為的方法や事故により亡くなられたご遺体の状況について集中的に学ぶことになりました。
法医学は、「死因が問題となるご遺体」や、「殺害のされ方が異常なケース」を特に研究して死因を解明するのが目的であり、しかも医師の中でもその分野のプロが集中的に扱う領域ですので、必然的に「およそ通常人の想像を絶するような状態のご遺体」ばかりが研究対象として取り上げられることになりました。
通常では考えることすらないような極めて凄惨な形で命を落とされたケースや、本当に一瞬のうち、数十秒程度の短い時間に何人もの方がまたたくまに次々と亡くなったケース、そうした痛ましさの極みとしかいえないようなケースばかりを集中的に、しかも大量に連続して学ぶことになりました。
【人の死後】
また、この学問では、「人が亡くなった後にどのように変化してゆくか」という点を学ぶことも、とても大事な要素でした。
通常の状況で放置されて分解してゆくご遺体、水の中に沈んだご遺体、土に埋められたご遺体、クーラーを強く効かせた状態で放置されたご遺体、乾燥した冷地で放置されたご遺体、直射日光にさらされたり高温化で放置されたご遺体、ガスを吸ったご遺体、そういったご遺体が絶命直後はどうなるのか、どれほどの時間を経て、どのように変化をしてゆくかを刻々と時間刻みで理解することも重要な点でした。
腐敗が進み、蛆虫が大量についたご遺体の姿を目にすることも勿論ありました。
どのような種類の蛆虫が体に発生し、どの程度成長しているか、周囲の気温は何度だったか、日光は何時間照射していたかを組み合わせて、死亡推定日時・時刻を割り出すことも必要だったからです。(損傷の激しかったご遺体の例をあげればキリがありませんし、そうしたあまりに痛ましい例が現実に世の中にいくらでもあることが伝わればそれで目的は果たされますので、あまり具体例には言及しないでおきたいと思います。重要なのは、そうしたケースがこの日本にもいくらでも存在し、その実例に自分が現に立ち会ったことを知っていただくことだと考えています。)
死後硬直がどのようなものか、死斑とはどのようなものか、生体反応とは何か、腐敗した死体の変化がどのようなものか、といった点を具体的に学びましたし、実際に自分で「死亡推定時刻」を割り出す計算をすることもありました。
【授業の進め方】
この授業では、最初の1回目の講義の時に、「人の死を直視することになるので、最初の授業で耐えられない人は受講を辞退するように」と説明され、その最初の授業では、異常ケースではない、ある意味典型的な犯罪で亡くなった方のご遺体の写真に基づいて、概括的な説明がなされました。
実際に見ているのは「写真」とはいえ、現に亡くなった方の姿が克明に写され、そしてその方が「他人の手にかかって亡くなったのだ」という「本当の現実」を目の当たりにした時の衝撃は強く、最初の1回目は、私は本当に足が少し震えたことをよく覚えています。
その後、この法医学の講義では、1コマ1コマごとに、「今回は焼死」、「今回は凍死」というように、毎回違った死因ごと、上に書いたような実に様々な死因ごとに分けて講義がなされ、実際にそれぞれ死因で亡くなったご遺体の大量の写真に基づき、その死因によるご遺体の状況や特徴、その死因により人が絶命に至るプロセスなどが詳細かつ徹底的に、しかもすごいスピードで淡々と説明されていきました。
実際に司法解剖にも立ち会い、大学院修了後の司法修習中の検察庁においても司法解剖に立ち会いました。
このようにして、私は法医学の授業を通じて文字通りすさまじい数の「人の死」を目にするとともにその詳細を知りました。
こうした特殊な経験は、その後の私の「人生観」・「神についての考え」に、言うまでもなく多大な影響を及ぼしました。こうした場面に立ち会った際に、まずは「人として」自分が何を感じ、何を考えたかについて、次回書きたいと思います。
【大学院に進学する】
すでに書いた通り、大学を卒業したのち、私はいろいろ考えましたが、大学院に進学することにしました。
「どうせ周りの友人とは7年間の時間のビハインドがあるのだし、社会に出るのにもう少し遠回りしてもこの際いいか」という思いもあり、また、ちょうど私が大学を卒業するころに政府が新しく専門職学位(博士号)の教育制度を新設し、これがアメリカの制度に合わせたものであったので、「勉強したい、大学に行きたいと思っていたのだから、どうせなら博士号を取りたい」という思いもありました。
そのようなわけで大学院に進学したのですが、この新しい教育制度は、それまでの既存の修士課程・博士課程とは全く違い、朝から晩まで徹底的にひたすら勉強させられる、極めてハードなもので、まさにアメリカの大学院制度によく似たカリキュラムでした。
冗談ではなく文字通り朝から晩まで勉強し、大げさではなく酒を飲むのも年に1回か2回が限界であとはひたすら勉強、という生活でした。
そして、私にとって一番うれしかったことは、ちょうど大学1、2年の「一般教養課程」のときのように、この大学院でも、専門課程とは他に、相当高度に専門的なレベルの「一般教養」を再度履修できる(というかしなければならない)ことで、経済学や経営学、法社会学、統計学といった様々な分野について、一流の教授たちから徹底的に集約して詰め込んだ内容の講義を受講することができることでした。
そうした一般教養課程の1つに「法医学」があり、先に進学していた友人たちからは「IMは絶対に法医学を履修したほうがいいよ。なんていうか、君にあっているよ」と口々に言われ、実際に「法医学」を履修することにしました。
【法医学とは】
法医学とは、簡単に言えば、「犯罪により亡くなった方、犯罪により亡くなった疑いのある方のご遺体を解剖し、その死因を特定する」学問であり、まさしく「死体についての研究」そのものでした。
ご遺体の解剖にもいくつか種類があり、テレビのコメンテーターをしたり本を書いたりする解剖学者の医師の先生で有名な人がいたりしますが、そうした先生たちがするのは「行政解剖」という比較的簡易な解剖であることも多く、他方で「司法解剖」は「犯罪性がある」場合に実施される解剖で、想像を絶するほど徹底的な解剖がなされることが通常といえると思います。
実際、警察が取り扱うご遺体のうち、司法解剖が実施されるのは全体の5%以下である都道府県がほとんどですし、司法解剖を行うのは、大学医学部の教授か准教授にほぼ限られていると思います。
私が非常に幸運だったのは、数々の冤罪事件でDNA鑑定を行い再審無罪の立役者となり、大規模航空機の墜落事故において身元確認の総責任者などをしてきた、「日本の法医学の権威」ともいえる他大学の医学部長の先生から直接に講義を受けることができたことでした。
また、私は、大学院を修了してからすぐに最高裁判所の司法修習生になりましたが、裁判官の発布した令状に基づいて司法解剖の執行・立ち合いをするのは検察官であり、配属先の地方検察庁では、私に「法医学」の基礎知識が備わっているということで、司法修習生の時にもこの検察庁管内で行われる司法解剖に立ち会いをさせてもらうこともできました。
こうした経緯から、私は足掛け2年くらいの期間、「人の死」・「人が死に至るまでの経緯」・「人が死に至った場合の、残された人たちのその後の生き方」という、およそ考えうる最も深刻で重大なテーマと向かい合うことになりました。
また、「宗教」や「哲学」などの机上の話とは全く異なり、「純粋に科学的な視点」でこうしたテーマに向き合うこととなったため、そこには何らのぼやかしや目隠しも存在せず、「眼前に横たわる圧倒されるような真の現実」に、日々、直接に向き合うことになりました。
この経験が、私の「死生観」「人生観」「神についての考え方」に根本的かつ決定的な影響を与えることになりました。
※次回以降、実際に私が目にした現実について書きたいと思いますが、すでに書いた通り、読む方によってはあまりにも衝撃的な内容になると思います。私自身、当時は極めて大きな底知れぬ悲しみの闇の中に引き込まれそうな感覚になり、友人たちから心配されるほどの経験でした。結局そのことが、「一人の人間として自分の足で自分の人生を歩む姿勢」を確立してくれましたし、「人生で最大の苦難に直面してる人と共にその困難の中を付き添って歩む『弁護士』という職業を続ける基礎」を据えてくれたとは思います。しかし、当時は本当に大きな衝撃を受けました。ですので、必ずしもお読みになることはお勧めしないです。
ここから先は、エホバの証人のマインドコントロールが解けたのち、しばらくたって経験した「最後の大きな心境の変化」、そして「人生観や神の存在についての自分の考えがどのように確立していったか」について、その「きっかけについての経緯」とともに書いてみたいと思います。
大学を卒業する頃までに、私は日常生活においても、考え方やものの見方においても、完全にエホバの証人とは決別した生き方をするようになっていました。自分の感覚としても、人間関係やメンタル面でのこの団体とのしがらみはすべて断ち切れたと実感する日々を過ごすようになりました。
ただそれと同時に、当時の私は、エホバの証人関係者の方たちのために情報提供するサイトを運営していましたので、そうした意味で「エホバの証人」というものとのつながりはある意味存在したのですが、逆に言えば、この団体とはそうした「外からの視点」でのつながりしか持たないようになり、7年間の社会的な時間のハンディがあるということ以外は、実生活においてもメンタルにおいても、この団体からの自分への影響はほとんどなくなっていると感じるようになっていました。
とはいえ、幼い時からずっと「自分は死ぬことがなく、将来地上の楽園で永遠に生きる」と教えられ、長い間そう信じてきていましたし、「エホバという唯一真の神が存在し、その神が自分たち人間に個人的な愛情・関心を持っている」とか、「この神の主権がやがて立証される、世界はそうした論理・理由で存在する」とか教えられ、これもまた長い間信じていましたので、
エホバの証人の教えは全く信じてはいないものの、どこか「その教えの影響」がまだ無意識に残っていたのか、「明確な死生観」みたいなものを持ってはいなかったですし、「自分がいつか死ぬとき」について意識することも考えることもありませんでした。
また、「エホバの証人が教えるエホバ神はいない」と思うようになってはいましたが、「神がいるのかいないのか、神がいるとしてどのような存在なのか」という点については、基本的には「神はいないのだろうし、万が一いたとしても自分には無関係の世界で存在していて自分に影響を及ぼすことはない存在なのだろう」と思いつつも、何か漠然とした、ふわふわした感覚でいました。
(今にして思うと、若い学生の時期に明確な死生観を持つ人や、神について明確な結論を持つ人、そうしたテーマについて考える人のほうが珍しいですから、ある意味では当時の自分は本当に標準的な日本人の感覚を取り戻していたのだろうと思うこともありますし、或いは、完全にエホバの証人の教えを退けつつも、心のどこか・考え方の奥底では(エホバの証人組織の個別の教えは信じていないものの)この団体に教えられた大きな概念が漠然と残存していたのかもしれないと思ったりもします。)
いずれにせよ、「神がいるのかいないのか」については、この頃、つまりエホバの証人のマインドコントロールが完全に解けたと思う時期になっても、なんとなくフワフワした漠然とした定まらない思いでいました。
ところが、大学を卒業した後に、ある「学問」を学び、その「完全に科学的な」学問を通じて、これらの点についての私の考え方はさらに変化し、確立されることになりました。
もうすこし正確に言えば、その「学問」を通じてというよりも、その「学問」を通じて「圧倒されるような本当の現実」を目の前に情け容赦なく叩きつけられ、その押しつぶされるような圧倒的な現実をまざまざと見ること、さらには次から次へと見続けることにより、自分の考え方の甘さがすべてことごとく吹き飛び、同時にエホバの証人の教える考えがいかに甘く、いかに危険であるかを再認識し、さらにこうした過程を通じて「神などいるはずがない」と確信するようになった、というのが適切であると思います。
エホバの証人であったときには、「世の中に様々な苦しみや悲しみがあることを知り、なぜ神がそのようなことを許しているのかと考えて霊的なことに目ざめ、真理を知ることですべての答えを知って納得し、神を信じるようになった」という話を腐るほど聞かされました。
しかし、私個人の感覚をいえば、これは全くの嘘っぱちで、むしろ、現実は逆であると感じるようになりました。
「世の中にある様々な苦しみ、悲しみ」のその実態・現実を本当に知るならば、
・「この世に愛ある神などいるはずがない」
・「神などはいないという前提で、人間は一人一人がしっかりとその人生を生き抜いていかないといけない」
という結論にたどり着くはずであると、少なくとも私個人は確信するようになりましたし、その確信は今も変わりません。
その、私の人生観を最後に変えてくれた「学問」とは、
「法医学」
つまり、死体について研究する学問でした。
※今回から先に書く内容は、非常に悲しく、非常に衝撃的な内容になるかもしれません。ですので、そうした精神的衝撃が苦手な方、特に、愛する人を失った経験がある方は、読まないでおいたほうが良い内容もあると思いますので、その旨を先にお伝えしておこうと思います。
私がブログを始めたときに「書きたい」と思っていた内容はここまでです。
大学2年目を過ぎるころには、私はエホバの証人とは完全に決別するようになり、生活においても自分の考え方においても、エホバの証人とは全く関係のない生活をするようになりました。
その後、大学院に行き、大学院修了後にすぐに司法修習に行き、そのまま弁護士になり今に至りますが、この間に失った人間関係を立て直し、家族や親戚との関係を立てなおしましたし、自分自身の生き方・人生そのものを取り戻そうと必死に生きてきました。
いつしか、自分が開拓奉仕をしていた期間よりも、この世での弁護士としての期間のほうがずっと長くなり、自分にとってエホバの証人との関係は全くと言って良いほどなくなってゆき、自分の思いの中からもいつの頃からかエホバの証人のことが消えてゆくようになりました。
しかしある時、まだ比較的若かった親しい友人が突然続けて亡くなったことがあり、その人たちのお葬式に出た際に、「人間は死んでしまったら本当に終わりだし、もしこのまま自分が死んだとしたら、自分がエホバの証人について知っていること、エホバの証人組織の中で見聞きしたことやその時感じた思いは、誰にも知られずに消えてゆくのか」と考えるようになりました。
そのような折、すでに書いた通り、K君が巡回監督になったという話を聞き、さらにいろいろ考えるようになりました。
また、現役のエホバの証人であるごく親しい親族が大量出血し、「輸血を受けて生きるか、輸血拒否をして死ぬか」の完全なる2択を医師から求められるという、まさか自分にそうしたことが起こるとは予想もしなかった事態に直面もしました。
その親族と、救急車の中で二人だけで向かい合って長時間救急搬送されている間も、いろんなことを考えました。
レイモンド・フランズは、『良心の危機』の一番最初を、「人の命ははかないもので、死んでしまえば知っていることも消えてしまう。しかし生きているうちに伝えることもできる」という言葉で書き始めていました。
私は、この言葉は本当に真実だと思いましたし、レイモンド・フランズの書き残した内容に比べてしまえば、あまりにちっぽけであまりに取るに足りない内容ですが、それでもなお、自分が実際に見聞きしたこと・自分が実際に経験したことを、どこかに書き残しておくべきではないか、そのようにして書き残しておけば、どこかの誰かに何かの役に立つのではないかと思い、このブログを作成しました。
当初書きたいと思っていた内容は、大枠だけではありますがなにがしかの形で書き終えることができたので、このままこのブログは終わりにして、何か方法でどこかに放置・保存しておこうかと考えていました。
ただ、すでに以前書いた通り、何人かの方に、「神はいると思うかどうか」についてお尋ねをいただきました。
私は現在のところ、「神はいない」と考えており、よほどのことがない限りこの考えは一生変わらないと思っています。
そして、そのような考えるに至ったのには、これもまたそれなりの、あまり人が経験しないであろう経験が強い根拠となっていますので、その点について、次回以降、書いてみたいと思います。
また、「剣道拒否事件判決」について弁護士としてどう思うかというお尋ねもいただきましたので、ペースが落ちるかもしれませんが、この点についても書いてみたいと思っています。
これらの点を書き終えれば、書きたいと思っているテーマは本当に終わってしまいますので、特に何かを書く理由がなければ、ブログは更新しなくなると思います。
もし何か、これらの点以外にも「こういう内容を書いてはどうか」というご意見をいただければ、なるべくいただいたご意見にそって内容を更新していこうと考えておりますので、そうした意見をお伝えいただければとても嬉しく思います。
これまで書いてきたとおり、私が「エホバの証人教理は虚偽である」との確信に至ったのは、
①自分が経験し、この目で見た「エホバの証人組織内部の偽善」
②大学教育を通じて知ることができた「エホバの証人の教えに多数入っている真っ赤なウソ」
③大学教育を通じて知ることができた「エホバの証人組織の、団体としての極端な不健全さ」
④エホバの証人教理を作っていた側である最高幹部(統治体の元執筆委員)が公表した「エホバの証人教理の根幹にある虚偽」
これらの要素が理由でした。
そして、この「エホバの証人教理は虚偽である」という確信が揺らぐことは、今後あり得ないと思います。
―――――――――――――
そのうえで、現在の自分の視点からの「エホバの証人組織」についてのまとめ、私個人のエホバの証人組織の時系列の流れについての理解は以下のようなものです。
(※事実関係の記載に間違いがあったらご指摘いただければ嬉しいです。あと、この「表」面白いので、今後、充実させていこうかと思っています。)
■15世紀:
羅針盤・活版印刷術の発明で「情報革命」が起こると、「聖書そのものに戻ろう」という社会活動が起き、カトリックだけだったキリスト教にプロテスタントが生まれる。
■19世紀後半:
産業革命で「さらなる情報革命」が起きると、「聖書そのものに戻ろう」という社会活動の第2派が社会に起こり、この時期にプロテスタントから抜け出し、「聖書を自分で研究し、神との関係を第一にする。そして自分たちだけが救われる。」と教えるキリスト教新宗教がさらにたくさん生まれ始める。
■1870年頃
・チャールズ・テイズ・ラッセルは、まさにこの、「当時はやっていた社会的流行の真っただ中」でその流行に乗り、自分も、ほかの非常に多くの類似した宗教指導者と同じように「エホバの証人教理の原型」になる教えに目ざめ、ほかのいくつもの新宗教に共通してみられる教えについて考え始め、「独自の聖書研究」を始める。
・ラッセルは、特にアドベンティスト派に強く惹かれながら聖書研究をスタートさせる。
なお、「キリストの再臨の年が現代に起きる」と設定してそれをふれ告げていたのがアドベンティスト派だった。
※結局のところ、「キリストの臨在が現代に起きる」と最初に教えだしたのは、ラッセルではなく、当時流行していたアイデアだった。
■1876年
・ラッセルはアドベンティスト派のネルソン・バーバーと一緒に「キリストは『1874年』に『見えない形』で再臨した」と教えだす。
(19世紀当時の不完全な資料に基づき、年代計算を繰り返して「アダムが神によって創造されてから6000年目が1873年」という根拠だった)
※つまりラッセルは、そもそも最初は1874年がキリストの臨在と教えていた。→のちにエホバの証人組織が撤回
・このネルソン・バーバーが「異邦人の時の終わりは1914年」と設定した。
※最初に「1914年が特別な年」だと言い出したのはラッセルではない。アドベンティスト派のバーバーが言い出したもの。
■1879年
・ラッセルはアドベンティスト派と別れて「ものみの塔」を発行しだす。
・ラッセルは、「1881年にこの世が終わり、自分を含む144,000人が霊者として神に取り上げられる」と予言する。
※ラッセルは、今度は「この世の終わりは1881年」、しかも、「その年に自分が霊者になる」と予言していた→予言外れる(1回目)
■1881年~1904年頃
・予言が外れたのに、ラッセルはその後も1904年までとても多くの本を書く。そして、ほかのキリスト教からどんどん隔絶してゆく。
・ラッセルはその勢いで、1884年に「ペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会」を法人として作る。
・ラッセルは「自分は神の代弁者だ」とか、「聖書を読んでいるだけではだめで、自分が書いた『聖書研究』を読まなければならない」と教えるようになる(ものみの塔1910年9月15日号)。
・また、ラッセルは、自分が「忠実で思慮深い奴隷」であるという考えを否定しなかった。
・ラッセルとその組織は、今度は「1914年にハルマゲドンが来る」「ラッセル達は天に行きキリストの千年統治が開始する」と教える。
※ラッセルとその組織は、「1914年に終わりの日が始まる」ではなく、「その年にハルマゲドンが来て自分たちは霊者になって天に行く」と予言していた。→予言外れる(2回目)
※JWは現在、この点についても事実と全く違う印象になる教えをしていて、注意深く聖書を研究していたラッセルとその仲間が「1914年に終わりの日が始まる」と気づき、そうふれ告げていたかのような印象を与えている。
■1914年
・ハルマゲドンは来ず、ラッセルとその仲間が霊者になることもなかった。
・それでも第1次世界大戦が勃発すると、ラッセルは意気揚々と「1914年に異邦人の時は終わり今はハルマゲドンの中にいる」、「第1次世界大戦は1918年のハルマゲドンの戦いで終わり、自分たちは天に連れ去られる」と教え始めた。
※ラッセルは、さらに今度は、1918年にハルマゲドンが来て自分たちは霊者になると言い出していた→予言外れる(3回目)
※この予言は外れたばかりか、この予言をしている最中の1916年10月31日にラッセルは汽車の中で普通に病死してしまう。
※第1次世界大戦もハルマゲドンなどには突入せずに、平和的に終了する。
■1920年
・2代目会長J・F・ラザフォードが、有名な「現存する万民は死することなし」という本を出版
・ラザフォードとエホバの証人組織は、
「1925年に人類が完全さを取り戻し1000年統治が始まる」
「アブラハム、イサク、ヤコブなどの古代の僕が復活して「現存する万民」と新しい体制で永遠に生きる」と教える。
・実際に、これら間もなく復活してくる人たちのために、ベト・サリムと命名した豪邸をカリフォルニア州サンディエゴに購入。
・兄弟姉妹たちには「進学・結婚・出産・ビジネスはみな遅らせて、1925年の新しい秩序でそれをするように」と強く教える。
※今度はエホバの証人組織は、1925年に「この世の終わり」と「復活」が始まると教えた。→予言外れる(4回目)
■1922年
・エホバの証人であれば誰でも、1922年のシーダーポイントの大会でJ・F・ラザフォードが「宣伝し、宣伝し、宣伝しなさい!」と講演したことを知っている。しかし、実際のこの講演は、以下のような文脈でなされた。
「聖書の預言は、主が1874年に再び現れることを示しています。」
「成就された預言は、実際に主が1874年に現れたことを疑う余地なく示しています。」
「主は1874年以来臨在しておられるのですから、我々が今目の前にしている事実から考えれば、1874年から1914年までが準備の日であることになります。」
「これは、「終わりの時」が1799年から1914年までだという考えに矛盾するものでは決してありません。」
「1799年から1874年までの期間は準備の日とは言い得ず、これは増しつつある光の日というものです。これを信じますか。栄光の王が臨在しているということ、1874年からずっとそうだということを信じますか?」
「では,至高の神の子の皆さん,野外に戻りなさい。…世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今はあらゆる時代のうちで最も重大な時代です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなた方は王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい!」
※エホバの証人組織は1914年をだいぶ過ぎてなお「1874年からキリストが再臨していることを、宣伝し宣伝し宣伝する」ように教えていた。
※エホバの証人組織は、「終わりの時が1799年から始まった」、「1874年がキリストの再臨だ」と教えていた
■1931年
・「エホバの証人」に改名
・この頃に、「油注がれた残りの者-天的クラス」と「大群衆-地的クラス」の2階級が考え出される。
■1935年
・5月のワシントンDCの大会で、エホバの証人は「油注がれたもの」と「大群衆」の2階級に分かれると教える。
・「1935年で油注がれたものを集める業は基本的に終了した」・「この年以降に油注がれるものは、不忠実になって離れた者の補充である」と永年にわたって教える→後にエホバの証人組織自ら撤回
■1941年
・セントルイスの大会で、ラザフォードは5歳から18歳の子供たちを最前席に座らせて、「もうすぐに来るアブラハム、イサク、ヤコブたちの復活の日まで結婚を延ばすように」と教える。
・1941年9月15日のものみの塔誌の記事には「ハルマゲドンまであと数ヶ月」と書かれる。
■1942年
・同年1月8日、「復活してきた義人たちのために」といって作らせたベト・サレムはラザフォードの別荘として使われていて、ラザフォードはそこで癌で死ぬ。
※エホバの証人組織は、今度は、1941年に「この世の終わり」と「復活」があると教えた。→予言外れる(5回目)
・この年にネイサン・H・ノアが3代目会長になる。
・ノアは「教理」は苦手だったが、組織編成が得意で、第二次大戦後の爆発的な拡大に貢献する。
(巡回大会・地域大会の確立、ギレアデ聖書学校の創設、排斥処分の確立など)
・教理面を担ったのは、1949年に副会長になったフレデリック・フランズ。あとは意外なことに、大群衆の人たちがいろんな本を書いていた。
■1966年
・フレデリック・フランズが『神の自由の子となってうける永遠の生命』を書く。
・その中で、「1975年に人類創造から6000年が終わり千年統治が始まる」という教理の発表。
・以後、9年間にわたり1975年の終わりに備えるように信者を扇動。
(例:目ざめよ!1969年8月8日号 15頁
「若い人々はまた、現在のこの事物の体制の下で年配に達することは決してないという事実を直視しなければなりません。どうしてそう言えますか。なぜなら聖書予言の成就という証拠はすべて、この腐敗した体制があと数年のうちに終わることを示しているからです。」)
(例:塔68 8/15 502頁)
「終わりの時」に関する聖書預言の最後の部分は、ここ何年かの間に成就を見、生き残った人類はキリストの栄光ある千年統治の下で解放されるでしょう。)
(例:王国宣教1974年5月号
家や資産を売って、開拓奉仕をしてこの古い体制における自分たちの残りの日々を過ごそうとする兄弟たちのことをよく耳にしますが、確かにそれは、邪悪な世が終わる前に残された短い時間を過ごす優れた方法です。 )
■1975年
・終わりは来ず。
・これを受けて、「人類創造は、エバが作られた年を起点にすべきでアダムの創造とエバの創造には少しのタイムラグがある」という教えを押し出し混乱する。
・結局、「1914年の出来事を見た世代が死に絶える前に終わりが来る」という、もともと少し前からあった予言を強調し始める。
・この頃から「高等教育の否定」の傾向が非常に強くなる。
・また、この年に、ネイサン・H・ノアが統治体会議で「1914年、これはよくわからない。我々も1914年の話はずっとしてきている。正しいかもしれないし、そうであってほしいとも思う」という名言を残す。
※エホバの証人組織は、今度は、1975年にハルマゲドンが来ると教えた。→予言外れる(6回目)
■1977年
・6月7日にネイサン・H・ノアが脳腫瘍で死亡。
・この年、スウェーデンの熱心な長老カール・オロフ・ジョンソンが「西暦前607年に根拠がなく1914年の教理が間違いである」と論文で指摘。
・統治体の成員レイモンド・フランズは、自分の長年にわたる研究(しかもエホバの証人組織に支持された研究)の結論もこれと同様であったため、この点について検討すべきと打診するが、統治体はこれを無視する。
■1979年
・それでも、1914年についての教義は根拠がないもので、修正をしないといけないという意識は統治体にあったものと思われる。
実際、この年の11月14日の統治体会議でカール・クラインが、かの有名な、「時々使うこんな手がある。ある教義についてしばらくの間黙っておいて、それから変更を加えるとあまり目立たない。」という発言をする。
■1981年
・12月31日、教理の根幹の間違い(西暦前607年の間違いなど)を指摘し続けていたレイモンド・フランズが排斥になる。
・時期を前後してレイモンド・フランズと親しいギレアデの教訓者・元地域監督・元巡回監督・現役ベテル長老たちも大量排斥になる。
・この頃から、排斥者・断絶者・背教者への忌避が非常に強くなる。
■1984年
・なぜか、統治体の成員のレオ・グリーンリースが、理由を示さずに統治体を辞任し、辞任の事実も公表されない。
(1979年には別の統治体の成員、エワート・チティーも同じく理由を示さずに統治体を辞任し、辞任の事実も公表されていない。)
・その後、1986年1月1日号のものみの塔「ノアの日のような日」という記事に、「 衝撃的なことですが,エホバの組織内で目立った立場にいたある人々でさえ,同性愛,夫婦交換,子供に対するわいせつ行為などを含む不道徳な習慣に屈してしまいました。」という文章が掲載される。
■1986年
・大量の出版物を発行して、組織が拡大に拡大を続けていた時期。
・この年の6月16日付で、マサチューセッツ工科大の教授が、エホバの証人組織が「自分の書いた書面につき彼らの欲しい部分だけを引用して、自分の文章の趣旨を無視したことが明らかである」という趣旨を書面で表明。
・この頃には、「忠実で思慮深い奴隷」とは、「油注がれたクリスチャン全体」であり、「統治体はその代表格である」という教えが確立しており、この教えは非常に長い期間維持された→後にエホバの証人組織自ら撤回
■1995年
・11月1日号のものみの塔で、「この世代とはキリストの臨在のしるしを見ながらも自分たちの道を改めない地のもろもろの民のことである」と見解を変更。
※「1914年の出来事を認識した世代が死に絶える前に終わりが来る」という教理を放棄。→予言外れる(7回目)
・それまでのエホバの証人組織の見解の流れ・内部事情を考えると、時の流れとともに予言が外れるのが不可避になってきたために、予言を撤回せざるを得なくなったことは明らかとしか考えられない。
■1998年
・インターネットの普及(及びこれに伴うエホバの証人情報へのアクセス向上)と呼応するかのように、日本のエホバの証人は減少に転ずる。
■2001年
・2001年10月8日、イギリスのガーディアン紙が「エホバの証人組織が国連と提携していた」事実を報道。
・2001年10月9日、エホバの証人側からの要請があったため、国連はエホバの証人との提携を解消。
・この後、2004年3月4日に国際連合NGO課が、「エホバの証人が国連との提携を1991年に申し込み、1992年に認められたこと」、「この提携を受け入れることによりエホバの証人組織は『国連との提携基準』を満たすことに同意したこと」、「この国連との提携基準には、『国連憲章の理念を共有している』・『国連の活動に関する効果的な広報プログラムを運営する決意と手段を持っている』などの基準が含まれる」という内容を回答。
■2006年頃
・表彰物にあずかる人(油注がれた残りの者)の数が増加に転じはじめる。
(一番少なかった2005年は8,524人であったのが、2006年から増加し始め、2019年時点で20,526人まで増加。この間、14年間経過しているのに241%の増加。)
■2007年
・ものみの塔2007年5月1日号で、「1935年に油注がれた者を集める業は基本的に終了した」という教えを撤回。
「天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ終わるかに関して,明確な時を述べることはできないように思われます。」と記載。
■2008年
・ものみの塔2008年2月15日号で、「イエスは,『これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません』と述べた時,弟子たちのことを言っていたに違いありません。」と見解変更
※「この世代」についての教理を再度変更
■2009年
・10月3日、年次総会で統治体のジョン・バーが、「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。それは,しるしが1914年に明らかになり始める時に生きている油そそがれた者たちの生涯と,大患難の始まりを見る油そそがれた者たちの生涯とが重なる,という意味であったようです」と見解を変更。
※「この世代」についての説明を再再度変更。
■2010年
・統治体の成員ジョン・バーとセオドア・ジャラズが死去。
これにより、「旧体制統治体」(1977年以前に任命された統治体で、ふれ告げるの本にリストと顔写真がのっているメンバー)全員が死去。
・旧体制統治体後は、非常に若く、JW経験が浅い人物が突然統治体に任命されるようになっている。
マーク・サンダーソン:任命当時40代・開拓奉仕開始は1983年
ジェフリー・ジャクソン:任命当時49か50歳・開拓奉仕開始は1971年
ケニス・クック:任命当時50代半ばか・開拓奉仕開始は1982年
・統治体の成員よりも「大群衆」の兄弟のほうがよほど高齢でJW経験もはるかに長いというケースが普通になる。
(実際、私の母親よりも開拓者歴が短い統治体メンバーがすでに複数いる。)
・集会や大会の祈りで「高齢の統治体の兄弟を支えてください」というフレーズが聞かれないようになってゆく。
実際、祈っている大群衆の兄弟のほうが、統治体よりずっと高齢でずっと経験が長いというケースが普通のことになる。
■.2012年
・この年の6月13日にアメリカでエホバの証人組織に対し、「児童性的虐待」の損害賠償判決(キャンディス・コンティ事件)
(カリフォルニア一審裁判所で、エホバの証人組織が、当時9歳の少女に信者が性的虐待を加えているという事実を知りながら警察へ通報を妨げる結果を引き起こし、児童虐待につき組織的な隠蔽を引き起こしたとの判決がでる。損害賠償金:約21憶円の40%。)
※その後も各国で、児童虐待隠蔽の裁判・報道が相次ぐ
・10月6日、年次総会で統治体のデービッド・スプレーンが、「忠実で思慮深い奴隷とは統治体の8人のみをさす」として、忠実で思慮深い奴隷についての永年の見解を変更。
■2014年
・ものみの塔2014年1月15日号で、「わたしたちの理解によれば,イエスが言及した「この世代」には,油そそがれたクリスチャンの2つのグループが含まれています。第一のグループは1914年に生存していた人たちで,その年におけるキリストの臨在のしるしをすぐに識別しました。このグループを構成している人たちは,1914年に生きていたというだけでなく,その年に,あるいはそれより前に神の子として霊によって油そそがれていました。 「この世代」に含まれる第二のグループを構成する人たちは皆,第一のグループに属する人たちの一部がまだ地上にいる間に生きていて,その期間中に聖霊によって油そそがれた人たちです。」と書き、「この世代」についての見解をさらに詳しく説明。
■2015年
・5月号ものみの塔で、 「マゴグのゴグ」は悪魔サタンではなく「諸国家の連合」であるとして、永年の見解を変更。
・統治体のデービッド・スプレーンが、妙な表とフレデリック・フランズの例を使って、「イエスが言及した「この世代」には,油そそがれたクリスチャンの2つのグループが含まれている。第一のグループは1914年に生存していた人たち、第二のグループは,第一のグループに属する人たちの一部がまだ地上にいる間に生きていてその期間中に聖霊によって油そそがれた人たち。」という見解をブロードキャスティングで説明する。
※以下のサイトを参考にしました。
http://buta.exjw2.org/tactics/tactics2.htm
https://www.stopover.org/lib/translation/NGO/index.html
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この流れだけを見ても、正常な判断能力を持つ人で、新しく「エホバの証人」に関心を持った人がいた場合、「エホバの証人は神に導かれて、現代の時の意味を真に理解した唯一真の宗教だ」と結論付けるまともな人が、はたしているのでしょうか。
・エホバの証人組織は、①1881年→②1914年→③1918年→④1925年→⑤1941年→⑥1975年→⑦そして「1914年の出来事を認識した世代が死に絶える前」にハルマゲドンが来ると予言し、そのすべてを外してきました。
しかもその都度、「自分の生活を全て犠牲にしてエホバの証人活動に没頭するよう」信者を強く扇動してきました。
・エホバの証人組織は、キリストの臨在についても、「1874年」であると長年にわたり教え、1922年の時点でもこの点を非常に強く強調していました。「1914年がキリストの臨在である」との教えに落ち着いたのは、1922年が過ぎて相当の期間が経過した後だったようです。
・さらにエホバの証人は、忠実で思慮深い奴隷・油注がれたものについての教理も、幾度も変えてきました。
これらのエホバの証人教理の信じられないほどの変遷は、すべて、
・「自分たちが生きているある特定の時(間近に迫った特定の時)にハルマゲドンが来る」と言って信者を煽るだけ煽り、信者を増やすだけ増やそうとしたこと、
・そして、時が経過するにつれてその教えが間違いであることが明確になった場合、或いは、もはやその教えを維持できないと予想される時点にまで至った場合に、「もう数十年先延ばしにして、引き続き信者の引き留めと拡大を図る」という行為を繰り返してきたこと、
これらの事実を明白にするのではないでしょうか。
私個人としては、こうした状況を考えるとき、
①教理の正しさ、一貫性という意味においても、
②組織とその個々の信者が示す人間性・誠実さという意味においても、
この宗教が「神に選ばれた唯一の真の宗教」だとは微塵も思えません。
むしろ、この組織は、長い歴史の中で現れては消えていった、「人をコントロールして、宗教指導者の自尊心を満足させるためだけの宗教」であり、その存在は、聖書自体が言うところの「人が人を支配して害を及ぼす」典型であるとしか判断できませんが、
多くの人はどのような判断を下しているのでしょうか。
また、多くの人はそのような判断を下すうえでの正確な情報すべてにアクセスできているのでしょうか。
以上が、現時点における、エホバの証人についての私個人の認識・考えです。
前回の続きをもう少しだけ書きたいと思います。
繰り返しになりますが、『良心の危機』を読むことにより、「エホバの証人の教理の根幹が虚偽である」という事実を知ることで、私のエホバの証人教理への信仰は全てがオールリセットされました。
私は、「エホバの証人の教理が絶対に正しい」・「そしてその教理は古代史の証拠や現代科学のデータによって裏付けられている」と教えられ、そう信じていたのでこの教えを信じ、人生のすべてをこの教えに捧げていたわけで、
そうである以上、エホバの証人の教理が虚偽であり、しかも古代史の証拠や現代科学のデータはエホバの証人教理を一切裏付けていないと知ったからには、この教えを信じる理由が全てなくなりました。
これは少なくとも自分にとっては論理的に考えて明白な結論でした。
もちろん、「教理の正しさ」以外にも、兄弟姉妹との人間関係や、エホバの証人としての活動に身をささげていた時に得ていた満足感などもまた、エホバの証人活動を続ける動機になっていたのですが、これらほかの要素もすべて、つまるところは「教理の正しさ」を出発点としており、教理が虚偽なのであればそれに付随するこれら別の要素もまた間違った方法での満足感を与えるものであり、むしろ誤ったものであると結論付けざるを得ませんでした。
(また実際に、「教理が間違っているとわかりながらエホバの証人組織にとどまってほかの兄弟姉妹を励まし、その人たちとの交友やその人たちからの称賛を求めること」・「教理が間違っているとわかりながらほかの人に宣べ伝え、教える活動に参加すること」は、あまりにも偽善的で、エホバの証人の罪に加担する側になることであり、到底できないと少なくとも私個人は思いました。)
中の人たち、そして中の人たちとの交友がどんなに魅力的であったとしても、ニセの教理に立脚した人間関係なのであれば、どんなに痛手があってもそこを出ないといけないと思いました。
また、そうしたものは、一人の人間として自分らしく一般社会で生き抜いてゆけば、また別の新しいもの、今度は「ホンモノ」を自分で手にできるであろうし、本来人間はそのようにして生きていかなければいけないと、私はその時に思いました。
私がエホバの証人をやめた当時、「エホバの証人組織が間違いだというのであれば、私たちはどこの組織へ行けばよいのか」という趣旨の質問がネットでよく見られましたが、エホバの証人の教理が虚偽である以上は、「どこかの正しい組織に属さなければならない」という発想自体も「そもそもエホバの証人が植え付けたもの」であって、そうした考えもオールリセットされるべきではないかと、当時の私は判断しました。
「エホバの証人は間違いだとしても、聖書自体は否定すべきではないのでは」という意見もネットでよく目にしました。聖書についての考えは様々で、そうした様々な考えを否定する気持ちは全くありません。すべての考えは、人に害を及ぼさない限りで尊重されるべきです。
ただ少なくとも当時の私は、エホバの証人の教理が虚偽である以上は、「聖書が絶対の導きである」という発想自体も「エホバの証人が植え付けたもの」、そして「エホバの証人がほかの人の人生をコントロールするために使っていた単なる道具」であって、「聖書が絶対的に正しい」という考えもオールリセットされるべきではないかと判断しました。そして、今もその考えは変わりません。
こうした点で、「北広島会衆事件」に巻き込まれた人の手記を読み返すと、本当に心が痛みました。
https://www.stopover.org/lib/Kanazawa/index.html#jikenbo
この方たちは、「エホバの証人組織は完全におかしい」と体感し、確信しながらも、しばらくの間は「エホバの証人から教えられた、その『教え』の発想」の中でその事実を理解し、それに対処しようとしたために、非常に混乱した心理状況に長い間置かれ続けていたことがまざまざと伝わってきました。
自分はエホバの証人教理そのものが根幹から間違っているのだと理解しましたが、それと同時に、その教えから植えこまれた発想や考え方も一から連鎖的に覆されてゆくはずであると判断し、まさにゼロからオールリセットすることが人生のやり直しの上で重要なのではないかと思いましたし、そうした意味で、そのように判断する決定的な契機を与えてくれた『良心の危機』に出会えたことは幸運であったし、本当に感謝するべきであると思いました。
もちろん、排斥や断絶などの強硬手段をとらずに、信者である家族や友人と一定のコンタクトをとるパイプを残すことも1つの賢明な方法であるとも思います。
排斥や断絶といった「手続」そのものがエホバの証人組織の生み出したものですし、こうした強硬手段をあえて自らとることにより家族やかつての友人・知人と連絡が取れなくなることは、エホバの証人が「排斥・断絶」というシステムをわざわざ作りだして発展させてきたその彼らの目論見に自分自身が乗ってしまうことにもなりかねないと考えるからです。
(当然のことながら、一方的に排斥されてしまった人や、十分な情報を得られない状態で断絶した人について何かを言っているわけではありません。エホバの証人教理が虚偽だと気づき、この組織との関係をどうすべきかを考え、自分で選択肢を持てる場合についての一意見ですし、さらに言えば、そうした状況にあってなお排斥や断絶を選択する人がいるとして、その選択は別に誰からも非難されるいわれは全くないと思います。情報を得た上で、そして自分で考えた上で決定をするのが望ましいと思う、という単なる個人的意見です。)
こうした理由から、私は自然消滅という手段を選択しました。
いろんなことを書きましたが、結論として、私は『良心の危機』を読むことで最終的かつ決定的に、エホバの証人教理と決別することができました。これは、ちょうど大学2年生の終わりごろであったと思います。
追記:
私がこのブログを書いている目的は、「自分自身が実際に見聞きし、経験したことを再現すること」、そして、「その時その時に自分が感じたこと、考えたことを再現すること」です。ですので、今回のブログにも、自分が当時感じ、考えたことをそのまま書きました。
あまりに当然の話かもしれませんが、自分には、エホバの証人の真実に気づいた方で、自分と違う経緯をたどった方や自分と違う決断をした方の生き方について何か意見する気持ちは全くありませんし、当然そうした立場にいるわけでも全くありません。現役を続けようがエホバの証人をやめようが、排斥されていようがいまいが、断絶していようがいまいが、個々の人のそれぞれの判断または個々の人の置かれたそれぞれの個別の状況によってたどってきた経緯は、ほかの人に何か意見されるものではないと思います。