京都市右京区-太秦和泉式部町
太秦和泉式部町(うずまさいずみしきぶちょう) 京都の地名
昔 法妙寺跡に平安時代の歌人/和泉式部の塚があったといわれており この地は“字和泉式部(あざいずみしきぶちょう)と呼ばれていました その後町名の由来になったとされています 現在和泉式部塚は失われています
沿革
鎌倉時代中期 円覚(1223-1311)がこの付近に法妙寺を開く
江戸時代
1702年 和泉式部の塚は槲(かしわ)の木の傍らにあったと記されている(山州名跡志)
1754年 法妙寺の円覚上人の塔旧跡に 槲の木が植えられていたという(山城名跡巡行志)
明治時代
1848年 法妙寺跡に和泉式部の塚があったと記されている(捜式部古墳記)
昭和時代
1931年 字和泉式部より和泉式部町に町名が改められた
和泉式部
(いずみしきぶ) 天元元年(978)頃-没年不詳
平安時代中期の歌人 越前守/大江雅致の娘 中古三十六歌仙.女房三十六歌仙の一人
王朝女流歌人の中で第一人者とされ 『拾遺集』に多数入集 敦道親王との恋を記した『和泉式部日記』 和歌『和泉式部集』などがある 京都/誠心院に墓とされる宝篋印塔がある
木嶋坐天照御魂神社-蚕ノ社
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
通称は“木嶋神社(このしまじんじゃ)”や“蚕ノ社(かいこのやしろ)”とも云われ 古くから祈雨の神として信仰された神社 境内には日本でも唯一の珍しい“三柱鳥居”があることで知られています
創建は不詳 一説に推古天皇12年(604)広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれています 史料からは大宝元年(701)の記事以前の祭祀の存在が認められています
祭祀の淵源には諸説ありますが 嵯峨野.太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で 広隆寺.松尾大社.蛇塚古墳などの関係寺社/史跡が知られる事から 木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれています
また現在本殿東隣に鎮座する蚕養神社は 秦氏が将来した養蚕.機織.染色技術に因むと推測されます ただし秦氏の渡来以前にも木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られています
境内は御室川右岸の低位段丘面上の東端にあり 双ヶ丘の真南/広隆寺の真東に位置します 鳥居は広隆寺の南門のほぼ真東 木嶋社はその存在が文献上では古く大宝元年(701)に見え 京都市内でも最古の神社の1つに位置づけられます
元糺の池の存在から文献上での祈雨記事との関連性が見える他 蚕養神社の存在から秦氏との関連性が見られ また巨樹の社叢から古来の姿が窺える事から 境内は京都の歴史上重要な遺跡であるとして京都市指定史跡に指定されています
現在は涸れていますが25年程前までは湧水が豊富であったといわれ 現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されています
三柱鳥居(みはしらとりい)
柱三本を三角形に組み 三方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で “京都三鳥居”の1つに数えられています 中央の神座は円錐形に小石を積み 中心に御幣を立てて依代としたものです
この鳥居の起源等は詳らかでなく秦氏の聖地である双ヶ丘/松尾山(松尾大社神体山).稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などが有力です
大酒(大避)神社-太秦の土地神 弓月国の末裔
大酒神社
(おおさけじんじゃ)
創建に関して『広隆寺来由記』では 仲哀天皇(第14代)時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔)が“秦始皇之祖神”を勧請した事に始まると記されています 現在は広隆寺東隣に小祠として鎮座していますが 明治の神仏分離以前は広隆寺の桂宮院内(西側駐車場横)に鎮座する伽藍神でした
太秦の地は“日猶同祖論”の有力な証拠を多くも持っていると伝えられています この地を最初に治めた秦氏自体がユダヤと大いに関連性があると推測されている所以です 秦氏は朝鮮から渡ってきた渡来人で 秦の始皇帝を祖とする一族であると名乗り 直接の先祖(一番最初に日本に渡来した者)は弓月君(ゆづきのきみ)と呼ばれていました この先祖の名“弓月君”に大きな意味があります
『新選姓氏録』には14代/仲哀天皇の時代に弓月国から使者(弓月君の父に当たる功満王)が来たとあり それが秦氏の先祖であるとされています その弓月国こそシルクロードを経由しユダヤ人の末裔が建国した“原始キリスト教の国”だというのです そして彼らが最終的に本拠地とした太秦もローマの漢字表記である“大秦”の文字をはめたのだろうという説が唱えられています
この太秦の地の土地神として建立されたのが大酒神社です(祭神は始皇帝.弓月王.秦酒公) 現在は“大酒”と表記されていますが かつては“大避”あるいは“大闢”と記されていました “大闢”は中国語で“ダビデ”を意味します つまりこの神社の名前はユダヤの王を表しているのです この所以れが太秦における“日猶同祖論”最大の拠り所とされている部分です
もう一つ 大酒神社の祭りとして有名なのが京都の三大奇祭の1つ“牛祭り”です “摩多羅(マダラ)神”なる神様が牛に乗って練り歩き 広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという 誠に摩訶不思議な祭りですが 秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には“ミトラ教”なる教えがあり その最高神/ミトラ神は牛の頭を持つ神として伝えられています この事から多くの研究家はこの祭りを“ミトラ教信仰の名残”と推察しています
都名所図会
(みやこめいしょずえ)
江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌 “都名所”と称しているものの その記述内容は洛中.洛外に限らず広く山城国全域に及んでいます 文章は秋里籬島/挿絵は竹原春朝斎 全6巻11冊
摩多羅(マダラ)神を牛に乗せて巡行する牛祭の図 聖徳太子や弘法大師の名も確認出来ます
いさら井-日ユ同祖論と秦氏の繋がり
いさら井
広隆寺西方の駐車場を右に出て西路地の民家に“いさら井”と呼ばれている枯れ井戸が在ります これは“イスラエルの井戸”という意味で(いさらい→イスラエルの訛り) 元は広隆寺内にあったと伝えられていますが 所有者や元東京文理大学/佐伯好郎博士によると1,700年以上も前に掘られた井戸なのだそうです
太秦の地名に由来する様に この辺り一帯は聖徳太子が頭角を示す前までは“秦氏”の旧所領で 広隆寺は古代キリスト教/ユダヤ教に深く関わりがあるそうです(後述)
本来 “いさらい”とは「些細な」または「水の少ない井戸 ちょっとした湧水や流れ」を意味しています
日ユ同祖論
(にちゆどうそろん)
日本人(大和民族)とユダヤ人(古代イスラエル人のうちのユダ族.ベニヤミン族.レビ族))は 共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族であるという説 スコットランド人が滞日中の明治時代に著した論を発端に 一部の日本人とユダヤ人によって提唱されている説 英ユ同祖論など ユダヤ人と他民族文化を関連づけて論じる多数あるユダヤ人同祖論のひとつ
日ユ同祖論は主に
1.世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族(第9族エフライム族.第5族ガド族.または第7族イッサカル族)の数人が日本に移住したという説
2.英ユ同祖論における 世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族であるという説
3.イスラエルの失われた10支族は日本に渡来したという説
4.古代イスラエルの12部族全部が日本に来たという説
5.古代日本人はユダヤ人の先祖であるという説(古代イスラエル12支族=ユダヤ民族“ユダ族.ベニヤミン族.レビ族の3族”との勘違いから派生した説)
以上の5項目で成り立っています
秦氏は第15代応神天皇在任時に大陸から渡来し この時10万(19万ともいわれている/諸説有り)もの人々が日本に帰化したと伝えられています その一部は大和の葛城に あと多くは山城に居を構えましたが 雄略天皇(5世紀半ば)の時に京都の太秦の地に定住するようになったそうです
秦氏は非常に有力な一族で 794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られとされ 仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があったと伝えられています
元東京文理大学教授で景教学者/佐伯好郎
氏は 明治41年(1908)1月に『地理歴史 百号』(主宰/喜田貞吉)論文“太秦(禹豆麻佐)を論ず”の中で 秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であると考察しました 「“大闢大主”は中国の景教の経典においては“ダビデ”の意味であり 秦氏の建立した神社である大避神社(大酒神社)と また景教の寺は“大秦寺”で太秦と関係がある」といった内容です
秦氏の本拠地/八坂神社の祇園信仰にも 八坂神社や伊勢神宮周辺などに“蘇民将来”という伝承に纏わる護符がありますが ここにもダビデの紋章が出てくる等 古代ヘブライの信仰と類似している点を見る事が出来ます “Yashashkar(ヤ シャッシュカル)”とは10支族の一つ“イッサカル族(Issacar,יִשָּׂשׁכָר)”のアラム語における呼び名です
宮沢正典は著作『増補ユダヤ人論考-日本における論議の追跡』(新泉社 1982年)64~65Pで「うづ」はアラム語.セム語の“イシュ・マシャ”であり イエス・メシアを表す言葉であると発表しています
太秦にある秦氏の神社“蚕の社”には 三位一体神を意味する三柱鳥居という変わった鳥居があり アメノミナカヌシ神をその祭神としていましたが 元伊勢である“眥(籠))神社”に伝わる海部氏勘注系図(国宝)によれば 日本天地創造の三造化神筆頭である天御中主神(アメノミナカヌシ神)は 伊勢神宮外宮の祭神/豊受大神の事であると明記されています
秦氏は弓月の君(ゆづきのきみ/ゆみつきのきみ)と呼ばれていたとされています 弓とは英語でアーク/弓に矢を通した形状は三日月に似ている事で月と関係している何かを持っていたのではないか または弓矢などの武器を扱っていたのではないかと推測されています