地下鉄に乗った。空いていたのは優先席だったが、周りにお年寄りや身重の方がいないか見回して、いなさそうだったので、座った。さっき終えたばかりの仕事で疲れていた。運動のために立っていることも考えたが、1時間後に控えている別の仕事を考えて、座ることにした。少しでも、休息が必要だ。今の私には。

 

すると、隣に座っていた年輩の女性からと思うが、懐かしい、粉おしろいのような匂いが漂ってきた。七五三のための着物をしまっている桐だんすに入っている匂い袋のような、あの、上品な匂いである。

 

粉っぽいが、弾ける檸檬のような香りもするその匂いを、私は、思いっきり吸い込んだ。自然に深呼吸になる。すると、実家のおばあちゃんを、思い出した。今年、80歳になる。来月、実家の香川から、東京へ遊びに来るそうだ。私が東京に住んで11年が経つが、こんなことは初めてだ。今年の夏はお盆に帰省しなかったからか。それか、次のお正月も帰らないと決めている私の心を見透かされたか。父親も、一緒に来るそうだ。その日は、絶対に休みをとろう。あとどれだけの時間を、おばあちゃんと過ごせるか、わからない。いや、正確に言うなら、大体わかる。

 

電車がオフィスの最寄り駅に滑り込んだ。さて、と。夢を追いかけて、あとひと踏ん張りしますか。

"Matrix"

ラテン語で、「子宮、母体、生み出すもの」の意味らしい。

17年ぶりに、この映画を見た。初めて見たのは中学3年生のときだったから、キアヌ・リーブスが銃弾を交わす単なるフィクションのアクション映画だと思ってた。こんなに哲学的で面白い映画だったとは、。スカパー万歳。マトリクスの映画じゃないけど、「環境(プログラム)」って大事だ。「やる気」とか「意識」とか、どうでもいい。「意識」は最初だけ大事。あとはそれを基に「プログラム」を整えさえすれば、それで結果は見えている。

これまでずっと疑問に思ってたことや胸に引っかかってたことが、幾つも映画の中で描かれてた。

●「生きてる意味はなくて、単なる化学反応」
ずっと思ってた。なぜ生きてるのか。生きる意味はあるのか。ない、というのが今のところの結論だ。生命だから、生まれてきて、死ぬだけだ。そこに意味はない。意味なんかないのに、生きる意味はないか、なんて考えるのは馬鹿だ。意味はないんだから、勝手に自分で意味付けして、勝手に生きればいい。ただそれだけのことだ。そう思っていた。

すると映画の中では、プログラムMatrixの中で異端として生きるプログラムMezonjibionが、「一つだけ確実なものがある。それは因果関係(Causality)だ。」と言っていた。結果(Effect)は、原因(Cause)で変わる。アウトプットは、インプットで変わる。望む結果を得たいなら、それを引き起こす原因を与えなければならない。そしてその原因というのは、人間の脳に影響することであり、単なる化学反応だ。人間の脳に適切な化学反応を起こすプログラムを作れば良いだけのことだ、と言っていた。同時にそれは、理性とかそういうものが未来を決めるのではなく、動物の欲望という電気信号が結果を決めると言おうとしていた。

私の大事な人が、いつか言った。「単なる電気信号なんだよ。人を好きになるのも、結婚するのも。どうすることもできない。予め決まっていて、皆その通りに行動しているだけなんだ。」と。私は宗教は信じない。別に、その人が言うことが、その人が大切だから信じるのではなくて、私もそう思うから、私がそう思うから、これを信じているだけだ。

●「プログラム」と「選択」
プログラムがすべてを決める。明日何時に起きるかも、朝何を食べるかも、どんな服を着て、誰と恋に落ちるかも。自分で選んで選択したんじゃない。もうそうなることは、それを選択したときには既に決まっていた、ということをこれまでに何度も考えたことがある。自分で選択したんじゃない。選択したと思っているけど、選択したと思ったときには、既に決まっていたんだ。

映画では、第1話で、預言者が主人公ネオに言う。「あなたは、いつか選択しなくてはならない。自分がモーフィアスを助けて死ぬのか。モーフィアスに助けてもらって自分が活きるのか。」二つのうち一つを選択する必要がある、と彼女は言う。しかし第2話では、プログラムMezonjibionが、ネオたちに言う。「君たちはもう既に選択している。選択の理由を知らなければならない。わかるかね?」彼が言いたいのは、ネオたちは選択などしておらず、導かれるまま、預言者に言われるがまま、自分のところに来ただけだということだった。ネオたちは、「預言者」という名のプログラムによってMesonbijionのところに来させられた、ということである。

「何で結婚したの?」と聞かれて、「何となく」「意味なんかない」「好きに理由なんかない」と答える人は多いと思うが、そういうことだと直感的に思う。その人を自らの意思で選択したんじゃない。選択する前に、もう決まっているんだと思う。

●「プログラミングバグ」
物語の最後の方で、ネオは、Matrixを作ったアーキテクトに会う。そこで彼は、ネオのように覚醒した人(自分たちが物質的に搾取されて、精神は仮想の世界に閉じ込められていることを知ってしまった人たち)を「プログラミングバグ」と呼び、彼らが増えるとプログラム自体が脅かされてしまうため、消去するしかない、と語る。

社会は、組織は、ある種プログラムだ。プログラムの存在自体を脅かすものは、消すしかない。

アーキテクトは、彼がMatrixだけでなく、人間の生き残りの隠れ家であるザイオンさえもプログラムで作っていたことを明かす。人間は、人工知能が作ったプログラムの上で転がされていただけだった。

●「プログラムはうまく進んでるときには気づかれない」
プログラムは不調があったときに、初めて気づかれる。何かおかしい、と思うのは、それはプログラムが予定通り進んでいないことを意味している。それは、プログラム自体の不調か、プログラミングバグのせいか、いずれかである。

●「自分の意識が邪魔している」
映画の中で、ネオは飛べる。意識が飛ぶことを可能にしている。飛べないと思ったら飛べない。飛べると思うから飛べるし、銃弾を止められると思うから止められる。物質的な肉体を伴わない精神世界では、意識次第で、肉体の限界から自由になれる。しかし、心と体はつながっているため、心が死ねば、体も死ぬ。

●人工知能
メディアで最近人気だが、そうなる前からとても関心を持っていた。映画では、人間より高度に発達した人工知能が、人間の体を電池にして発電し、それら人間の精神をMatrixに住まわせて管理している。そんな時代がすぐに来るとは思わないが、自分で学ぶ能力を獲得したと言われる人工知能が、今後どのように発展するかは、人間次第と思う。まさに望む結果を得たいなら、原因を調整しなければならない。

書きたいことが沢山あるが、今日は疲れたのでこの辺で。
夜の住人になってしまった。こういう時は、精神的にまいってしまっている時と限っている。昔からそうだ。息をするのも苦しいぐらいの重大な悲劇があったときは、いつもこうだ。

今回のに匹敵するぐらいの一大事は、大学3年生のときの事件しかない。その時は学生だったから、苦しくて家から出ないということが許された。体重は、10kg落ちた。けど、今は、家に引きこもるということは出来ない。社会人だから。明日からまた仕事だ。現実。月曜。機械的に動く現代社会の歯車。正しいことをしていれば生き抜くことが出来る。少し外れていると、変わった人、欠陥品というラベルを貼られる。そうやって、社会的に阻害された人を、何人も見てきた。

この苦しい気持ちを、どうにかして取り去りたい。噛んでいたガムを吐き出すみたいにして、体の中から消し去ってしまえたら。そうしないと、本当に、私の心と体は、冗談じゃなく蝕まれる。

「どうしたらいいかな?」

悩むために悩んでるんじゃなく、本当にどうにか解決したいのだ。

「病院に行った方がいい。」

「病院?絶対に病院なんて行かない。何で知らない人が私の心の問題を解決できるの?無理に決まってる。うつというレッテルを貼られて、さらに悪化させられるだけよ。」

わかっている。自分を救えるのは、自分しかいないことを。誰が何て言おうと、私の問題は解決できない。私しか、いないのだ。だから困るんだけど。私は、そんなに強くない。

「理想が高いんだよ。」

夫に言われた。

さすが。よくわかってるな、と思った。彼は、何が私を蝕んでいるかはわかっていないが、私の心の動き方は、よく知っている。

理想が高いから、それに到達するにはとても何か高尚で大変なことを達成しないといけなくて、でもそれを達成することはとてつもなく難しくて労力がかかることだから、無理な負担がかかっていて、それで苦しいのだ、と。

当たってる。私は、あるべき姿と、でもそれに到達できない自分との溝を埋められなくて、分裂しているのだ。

「どうしたいの?自分がやりたいことをやればいい。」そう言われ、「2つの方向性が見える。分裂してるんだよね。」何も考えず、とっさに口をついて出た。

「このまま行くと、どうにかすると、どうにかなっちゃかも。」

「どういうこと?」

「いなくなっちゃうかも。物理的に。」

「そんな悲しいことは言わないで。インセプションのあの女の人みたいなんだよ。思い込むのをやめた方がいい。こうだと思ってることが、そうじゃないんだよ。そこに到達しなくていいんだよ。」

何でこんなにもわかるのか。さすがだな。だてに5年も一緒にいない。

確かにそうだ。私は「こうでなくちゃいけない」という理想像のようなものがまずあって、それに到達する方法まで「これしかない」という風に決めつけているような節がある。

人は、「認識」の生き物だ。私はそう信じてる。

夫は物理学者で、すべて物理法則に従って動いていると思っている。だから、自分が今こうすると決めたことであっても、それはそうじゃなく、こうすると今自分が決める前から、実はもうそう決めることが確定されていたものだと言うのだ。私は、そんなはずないじゃない、私には幾つもオプションがあって、その沢山のうちからこれを選んだのよ、結婚だってそうよ、と反論するが、彼は悲しそうな顔で、残念ながら、そうじゃないんだよね、と言う。

うまく反論はできないが、それでも私は、世界は人の認識で動いていると考えている。戦争が起きるのだってそう、恋愛に落ちるのだってそう、購買欲が働くのだってそう。人は、自分の認知したことをもとに、認知した範囲において、実際の行動を起こすのだ。逆に言えば、人の認識が変わらなければ、人の行動は変わらなくて、だから世界は変わらない。

私も、自分の認識を変えられればいいのだ。というか、もう、それしか救われる道はない。自分が「こうあるべき」と思うのをやめればいいのだ。わかってはいるけど、それが出来れば苦労はしない。

でも、そろそろ本気で変わらなければ、一年ずっと出られないでいたこの深い深い水溜りの中に、ずっと閉じ込められることになる。それはもう嫌だ。本当に苦しい。いつか、どうにかなってしまう。

理想を追うことをやめてみよう。自分の心の赴くままに、自由に生きてみよう。理想像に囚われず。自分が作った偶像に支配されず。

あぁ。もう夜明け。夜の住人は、人格を変える時間。今日も一日、仮面をかぶって頑張りますか。
深夜3時半。体中が重い。めまいのような頭重感がある。さっさと寝ればいいのに。小腹が空いて、お盆に帰省した時にお婆ちゃんが持たせてくれたインスタントのお味噌汁にお湯を注ぎ、昨日の残っていた冷たいご飯を入れた。

「いいよ、荷物になるから。」と言って、1回は断ったあのお味噌汁セットだ。お婆ちゃんや両親は、帰省する度に色々、お菓子に果物、塩辛やら漬物やら石鹸やシャンプーまで、何から何まで持たせて帰ろうとするのだが、その度に私は、6/10ぐらいの割合で断る。だって、本当に重いのだ。あれをすべて持って帰るとなれば、確実にスーツケースがもう1つは要る。必ずお米何合かが入っているため、それ以外の恵みについては、せっかくだが、申し訳ないけれど、半分以上の割合で丁重に断らざるを得ない。おまけに母親に至っては、洋服や靴、化粧品にまつ毛美容液まで入れ込もうとする。私が心無いのではなく、そもそも与えられる量が半端じゃなく多いのだ。

そうしたお婆ちゃんや両親と私のやり取りを勝ち抜いたのが、このお味噌汁だ。ビニール袋に入っていたからコンパクトに収納できたし、何より軽い。ただそれだけ。普段、私は、家でほとんどインスタントのお味噌汁なんて作らない(お味噌汁は、茄子とかジャガイモとか玉葱とかたっぷり入れて、自分で味を付けて作るのが好きだ)から、これもあまり持って帰るのに気は進まなかったが、まぁ平日物凄く忙しくしている私や家族にとって、インスタントだしいざというとき役に立つだろうと思いしぶしぶ承諾した。そうしたらなんと、こんなに早く、しかも確実に助けられることになるとは、全く思っていなかった。

ふぅ。お味噌汁を飲み干して、溜息をついた。沁みる。

しばらく、暗い闇の中に閉じ込められている毎日が続いている。1日、2日ではない。ちょっとやそっとでは、なかなか抜け出せそうにない。

閉じ込められる。すばらしく、この表現がピッタリだ。どこにも行けない。息苦しい。誰も、私が閉じ込められていることに気付かない。どこに出口への隠し扉があるのかわからない。自分でそれを見付けるべきなんだろうけど、何となく見えている幾つかある扉のうち、どこから出ればいいのか、決めることが出来ない。

何というか、行き止まりとはこのことだ。

もうこうして、かれこれ1年以上、ここに留まっている。同じところをぐるぐるぐるぐる。同じところなのかどうかも、もうわからない。果ての無い世界。荒野。どこにも道がない。自分で道を付けるべきなのだが、どっちに行っていいのかわからない。

こんなことってある?

苦しいときは、誰かに助けてほしいと思う。そうすると、自然に、過去私が助けられたときの温かい記憶がふと蘇った。オレンジ色のシェードランプに照らされたような光が後ろから射していて、そこに映し出されたのは、過去、私の危機を救ってくれた女性達だった。

数としてそんなに多くはないが、それは私があまり人に頼れなかったからということにも起因していると思うが、そんな数よりも、いざ驚いたのは、いつも私を助けてくれたのは、ほぼ9割程度何故か女性だったということだった。

母親はもちろんだが、家出したときに隠れていた近くの学校まで見つけにきてくれた幼稚園からの旧友Kも、手痛い失恋をして10㎏痩せたときに傍で見守ってくれたTやYも、就職に向けて心折れそうだったときに温かく励ましてくれた親友Tも、ひどい職場環境にめげそうになったときにアドバイスをくれたり時には厳しい指導をしてくれたりした上司Tも、こんな真っ暗な場所に1人閉じ込められているときに遠く離れた高松からメッセージをくれる妹も、そしてこんな危機のときにちゃーんと生きるお味噌汁を持たせてくれたお婆ちゃんも。

すごいな、女の人って。世界は女性が救うよ、これは。結構な割合で、本気で、そう思う。

男の人で私を助けてくれた人も、3人はいた。父と、今の「旦那さん」という立場の男の人と、職場の他課の先輩Oさんだ。

でも今はどうだ。何というか。どこに行っていいかわからない。誰にも助けてもらえない。

でも、これだけは確かだ。

「人は、生きたいように生きられる。」

常日頃、私は自由じゃなきゃ嫌、といろんな人に言っている。その癖、いざ自由となると、不安になるのだ。本当にその生き方が正しいのか、自分でまだ自信を持てないのだろう。

正しいって何?

自分にとって幸せか。そして、周りの皆が幸せか。私は、正しい生き方は、この2つの条件がクリアされたときに達成されるものだと思う。

この2つが両立するのであれば、それは正しいことだ、と今のところは思う。もしその2つが両立しないのであれば、何としても両立するようにしなければならない。

その両立を、どのような方法によって達成するか。

その答えを、今、自分で見付けて、自分で掴み取る。それが今の私の、やるべきことなんだと思う。
仕事帰り、何冊も小説を買い込んだ。

コーヒーを淹れて、たまに啜りながら、殆ど裸で布団にくるまり、ひたすら読んだ。素肌に触れるさらさらしたシーツの感触が好きだ。

数時間が経った。ふと休むと、脳みそが溶けそうになっている気がした。

絶望に閉じ込められていて、息苦しい。

どうしていいのかわからない。このままいくと狂ってしまうんじゃないか。

早く朝になって、美味しい卵料理とベーコンの朝食を作って、またコーヒーを飲んで、朝日を浴びたい。

明日には、全く違う、新しい自分になってればいいのに。心からそう願う。

でも、現実はそう甘くはないのだ。こうして今日も、見たくないものは見ないようにして、でも、自分の気持ちに真っ直ぐ向き合って、泥のように眠りにつく。

今,日曜の夜10時。明日からまた仕事だと,嫌々仕事のことを思い出して整理しながらPCのキーボードを叩いていると,何やら焦げたような甘酸っぱい匂いが立ち込めてきた。

何事かとキッチンの方へ振り返ると,私の旦那さんという立場の男の人が,コンロの前で私が昨日作って余っていたトマトソースパスタを,白いTシャツとボクサーパンツ姿で,フライパンに入れて温め直していた。

妹の新婚旅行みやげ,イタリアのパスタとトマトソースに,私の大好きな茄子と厚切りベーコンを加えて,さっぱりバジルで仕上げたものだ。私は,素材を活かしたシンプルな料理が好きで,こういうものをよく作る。味は,手前味噌で恐縮だが,私が作るものは,大体においてすべて美味しい。

でも,昨日の残りだし,しかも,今日はもう夕食をとったのだ。

「まじか・・。もう夜ご飯食べたじゃん。。」

少し早かったが,18時半ぐらいに,ある程度十分な量のサラダと牛めしを一緒に食べたのだ。。

「もーだからデブになるんだよ。知らへんよ,また帰省した時に太ったって言われても。かっこよくなくなったら,リ・コ・ンやからね!」

はぁ。

とは言いながらも,何だか少し,トマトソースの甘酸っぱい香りがそうさせたのか,何だかかわいいなぁと思ってしまった。

昨日作ったパスタなんて,もう時間が経ってトマトソースの水分を吸いに吸ってぶよぶよに膨らんでいる小麦粉の塊なのに。私なんてとてもじゃないけど食べようなんて思わないのに。それを,バクバクとある程度美味しそうに頬張っているなんて。

なんと言うか,かわいらしくないか。

ほら,もう全部食べ終わって,また物理の研究に戻ってる。


(笑)


すごいなぁ。笑ける。

私としたことが。


やっぱり,私,この人と暮らすのが楽しいんだろうな。
最近、読書が楽しい。

学術書や、仕事に活きる啓発本や、英語の本など様々読むが、今一番楽しいのは小説である。映画も好きだが、バックミュージックこそなかれ、静かな部屋で、現実とは全く違う世界に連れて行ってくれる活字に溺れていくことのこの上ない歓び。想像するだけで涎が出そうなほど口元が緩んでくる。

最近のお気に入りは、江國香織と百田尚樹である。

江國香織は、村上春樹の男版のように感じる時があり、それは人間の暗い部分に光を当てて鮮やかな言葉でめくるめく表現するところである。そのため、読んでも暗い気持ちになることがあり、初めはあまり好きにはなれなかった。しかし、だんだんと彼女が表現しようとしていることは、人を明るい気持ちにはしなくとも、現実世界の一部分、人間のひとつの姿であることは確かであって、それを私も否定するものではないから、また、そのような人間の暗い部分にも私は親近感を持つことができるタイプの人間だったから、最近は彼女の本のページをめくることが楽しくなってきた。

百田尚樹は、何と言っても圧巻である。もう、なんと表現すればよいのかわからないくらいに好きだ。巷で彼の『永遠の0』が人気を博していた。だから私は彼の本を読まなかった。天邪鬼なのである(笑)しかし、実家に帰省した時に「お姉ちゃん、安全保障をやりたいんだったら、これ(百田尚樹の本)読まなあかんやろ。」と妹から手渡され、世の中で持て囃されている小説がいかほどの良書かと半信半疑ながらもページを繰ったのが最後、一気に読み切ってしまった。あれほどまでに潔い、美しい話を書ける小説家を私は他に知らない。

何というか、信念を持った真っ直ぐな人間の生き様を描いていて、爽やかなのである。にもかかわらず、決して軽くはない衝撃や感動が織り交ぜられていて、重い。しかし、その重さは、村上春樹や江國香織とは違う重さであり、痛いほどに真っ直ぐで、恋かと思うほどに読者に憧憬の念を抱かせる熱いものなのだ。おかげで、私のPCのパスワードは、彼の本に出てくるある登場人物の名前になっている(笑)。彼の本の登場人物に恋してしまったとでも言おうか、夫には怒られるかもしれないが(夫にも百田尚樹の良さは事あるごとに話していて、その登場人物の素晴らしさについても目に火花を散らして力説している笑)、百田尚樹の小説に出てくる登場人物の為人の素晴らしさを前にすると、唖然として、何も言葉が見つからなくなってしまう。

もうすぐ、30歳になる。あと、2週間。振り返ってみると、自分が本当に30年も生きたのか疑わしくなる。自分は20歳の時から変わっているのか。成長しているのか。10年間何をしていたのか。いろいろ考える。不安になる。

あと5年だと思う。あと5年以内に自分の想うことを達成できなければ、その後の人生はだらりと伸びたゴム紐のようになってしまう。土台が埋まっている地盤が緩ければ、その上に立つ櫓は少しの風ですぐにぐらつく。

百田尚樹の本に出てくる人物は、「覚悟」が違う。「気概」が違う。だから好きなのだ。一つ刺し違えば、その時は死ぬつもりで生きている。あと5年、私もそういうつもりで生きようと思う。自信が無いなんて思う暇があれば精進する。そんなことを考える余裕なんかなくなるぐらい鍛錬に励む。彼の本の登場人物は、恵まれない境遇のときこそ人知れず努力を重ねて、後の大事に備えた。自分に対する世間の評価がとてつもなく悪い、生きていくのも憚られるほどの時があっても、それを自ら進んで引き受けてでも、自分の大切なものを護った。周りからどう見られるかではなく、自分が自分をどう評価するか。自分がこうと信じたのであれば、人にどう言われようとそれを貫く。そういう強さを、私も身に着けたい。

16歳のとき、通っていた公立高校の倫理の先生に「あなたは『したたか』ですね。」と言われたことを思い出す。そのとき私は、恥ずかしながら「したたか」という漢字を知らず、前後の文脈から何となく褒められたような気はしたものの、その時はすぐには何も言葉を返せなかった。家に帰り辞書を引いてみると「強か」と書いてあった。強い、ということなのか。誇らしさを感じるよりもむしろ、こんな私が何故、という気持ちの方が強かった。当時、私のいたクラスの中でいじめがあった。当時クラス内のほぼ全ての女子10数人で1人を無視するという強烈なものだった。標的は私ではなかったが、くだらないと思った私は、それに加わらなかった。それにいじめられている1人が可哀相と思ったから、彼女には普通に接した。すると、今度は、私にいじめの矛先が向いてきたのである。正義感が強すぎたせいか、私には彼女たちの思考回路が理解できず、苦しんだ。見かねた親はクラスの担任に電話をした。彼は「僕のクラスにいじめなど無い」と突っぱね、私を呼び出して「うちのクラスにいじめなんて無いよな、少なくとも俺はそう思っていない。」と考えを強いた。以来、教師なんて信じられないと思うようになったが、当時、私たちに倫理を教えていた定年間近の老教師なら救ってくれるかもしれないと一縷の望みを抱いた私は、彼の職員室を尋ねた。一連の話を聞いた彼が口を開いたときに出てきたのが、「あなたは『強か」ですね」という言葉だった。

今でも私は、まったく自分が強かとは思っていない。どう頑張っても、そうは思えない。毎日のように苦しいし、強くなりたいと常に思っているからだ。でも、13年前、倫理の先生が言ってくれたように、少しは私にも強い人の素地があったのかもしれない、と今となっては思う。自分が違うと思えば、周りに流されずに自分の信念にのみ従う。そういう、百田尚樹が描く私の憧れる人物の要素が。

であれば、私にもできるかもしれない。

あと5年だ。宮部久蔵のように、戸田勘一のように、磯貝彦四朗のように、自分の信念に真っ直ぐに、強く、命懸けで生きる。

30歳を前に。心に留めておくための備忘録として。

2014年6月7日(土)




「怒られても、ちょっとでも前に進むならいいじゃないか。」



隣の課の、ちょっと先輩の言葉。前のめりで早とちりであまり好きじゃないなぁと思ってたけど、こんなことを1年生に言って指導してたなんて。驚き。テキパキ仕事をこなすのは得意そうな人だけど、苦手だなぁと思ってた人が、私と同じ気持ちだったんだから。



私の最近のモットーは、「今少しくらいダメでも、10年後が良くなってればそれでいい。」



人は見かけによらない。



素敵な人の素敵な言葉を見つけた。



徹夜明けで今帰りの電車だけど。この、くずおれそうな程の疲労感さえ心地良い。力を尽くすと決めたから。
個の利益の追求は,公益を達成する。

アダム・スミスが言った「神の見えざる手」。

けれど,個が利益を追求することで生まれる不利益が,全体の利益を損ねることがある。

つまり,公益は,個の利益だけ追求することでは得られない。

個の利益と全体の利益の双方を合わせて追及した時に,初めて達成される。

非協力ゲームの生むデメリット。結局は,協力によってしか最適は得られない。

ナッシュの考えた均衡。一部の個だけでなく,全体を見渡す鳥の目が必要だ。