22歳がんと闘う!ステージIII期→胸膜転移→Ⅳ期へ

22歳がんと闘う!ステージIII期→胸膜転移→Ⅳ期へ

21歳でがんになり、手術で摘出後、1年後に再発を宣告されました。
今までの経験や感情と、これから始まる闘病生活について記録していきます。

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この秋、地元愛知県を去り、結婚のため上京します。

それに伴い、病院も変えようかと思っております。



遡ること6年前、大学4年生の春、学校の健康診断で胸腺腫が発覚しました。そのまま、大学附属の名古屋大学医学部附属病院に紹介状を持っていくよう指示され、今日まで名大病院でお世話になっております。

保健室の先生の「とても頼りになる先生だから大丈夫だよ」という言葉と、主治医Y先生のやや威圧的なオーラ、大学の附属病院というホーム感だけで、セカンドオピニオン等も一切考慮せず、開胸手術に臨みました。正確にいうと、そんなものを考慮する心の余裕はなく、言われるがままでした。

自称だったか何かで調べたかも覚えていないけれど、Y先生は胸腺腫の名医ということが判明し、特に疑うことや確かめることもなく、「そんな先生と出会えるなんて不幸中の幸い!」という具合のハッピー野郎でした。


こういうところ。根が極度の面倒くさがり屋なので、胸腺腫のことも多分どこかで面倒くさいんだろうな。そりゃ面倒くさいよね。病気なんて、出来るなら避けたい事象の1つです。もし、通院も治療も心身のケアも必要無い人生だったら、どれだけ開放的なんだろうか!いや、その分得たものも多いはず。いつもの無限ループです。


これまで、名大病院では、主治医だけでなく、手術にあたってくださったチームの先生、看護師さん、それから卵巣の凍結保存をした婦人科、たくさんたくさんお世話になりました。とりわけ主治医への思い入れは深く、ここまで来れたのもやっぱり主治医がいたからです。


半年に1度程度なら、検診のたびに愛知に帰ってくることは可能だし、もし手術となった場合も、実家が近いほうが安心ではないかとの思いもあります。


でも、治療方針を決めるときや病理結果を聞くとき、主治医の発言に「?」となったことがないわけではない。今回の播種の数だってそう。これまでの治療が、本当にこれでよかったのかなと不安になることだってほんのたまにあります。

それに、今の主治医だって、ずっと名大病院にいるとは限らない。現に、6年前手術してくれたチームのメンバーは、今はポテトヘッド1人しか残っていないのです。


だから、いささか面倒くさいけど、次のステージに進むという意味も込めて、この機会に転院しようと思います。東京なら選択肢もたくさんあるし、いいんじゃないかな。うん。主治医も、紹介状書くよ、と言ってくれました。


そこで、関東地域で、胸腺腫ならここ!という病院をご存知の方がいらっしゃったら、教えていただけないでしょうか。


主治医曰く、胸腺腫は特殊ながんだから、国立がんセンターのような、がん専門の病院では実績が少なく、大学病院のほうが研究が進んでいる、とのことでした。


でも、サイトの信憑性は不明ですが、全国の胸腺腫治療実績を調べると、下記の通り国立がんセンターが1位。絶対数が多いから?


特に希望がなければ、主治医が転院先を選んで紹介状を書いてくれるとのことでしたが、今回ばかりは、面倒くさがらず、しっかり納得のいく病院を調べたいと思います。


どなたか、お力を貸してください!






追伸:
今日は1年に1度の婦人科受診の日でした。卵巣の凍結保存から5年、残った右の卵巣は、しっかり働いてくれていました。

婦人科の主治医が結婚をとても喜んでくれて、涙が出そうになりました。

でも、それより何より嬉しかったのは、名大病院で、卵巣凍結保存の症例が増えていることです。

5年前、私は、名大病院で卵巣を凍結保存した、初めての患者でした。前例がないなら自分が前例になろう。いつか、自分と同じようにがんで悩む若い女性の力になれる、そんな日が来たらいいなと思っていた、そんな日が来たのです。これはさすがに涙が出ました。


あー、本当にもう面倒くさいことばっかだけど、生きててよかったなぁ。


















術後約2ヶ月が経ちました。

少し楽になったと思っていた神経痛は、低気圧のせいか、最近また時々疼きます。



先月、術後検診に行ってきました。

旧主治医のY先生は、良くないことがあると怖い顔で、怖いことを言う。そんな先生でした。

現主治医のポテトヘッドは、良いことも悪いことも、優しい顔で優しく伝えてくれます。


どちらも私にとっては恐ろしいです。




病理結果、播種が、2つあったそうです。

CTに映っていない2mmくらいのものを手術で見つけて一緒にとってくれたそうです。術後、1つしかなかったよと聞いたのはなんだったんだろう。寝ぼけてたのかなぁ。


ポテトヘッドの表情も声色もいつもと変わらず穏やかで、それが意味するところの主治医の見解は、読み取れませんでした。


でも、多分こう。

数年後に「再発」と診断されるであろう危険因子を事前に取り除くことができたよ、よかった、よかった。

そして、Y先生ならこう言う。

やっぱりCTに映る播種は、氷山の一角にしか過ぎない。また再発すると覚悟しておきなさい。




どっちも真理だと思うし、それ以上の「意味」はこれまでも自分で見出してきた。



精神論ではダメなんです。
傷付くのも、辛い思いするのも全部自分で、私の人生の責任は、私以外他の誰にも背負えない。



それは、今回の再発が分かってから手術前もずっと考えていたことで、過去6年の病状を振り返ると、2.3年後に再発したって何も不思議ではない。

その時、何を後悔するだろうか、何を諦めなければよかったと感じるだろうか、ひたすら、ひたすら考えました。

そして私は決めました。3年後、30歳で再発すると仮定して、それまでにやりたいことを、3つ、決めました。



1つ目は、留学です。
文章を書きたいと思ったのもそうだけど、私は、人の心を動かす仕事がしたい。仕事でなくてもいい。お金より大切な、価値を生み出したい。そのために勉強したいことが山ほどあって、アメリカのextensionに進学したい。これは実は半年くらい前から思っていて、留学センターに行ったり、英会話に通ったり、なんとなく準備を進めていました。

2月の検診で何もなく、主治医から許可が下りたら、1年くらい行こうと決めていたのです。



そして2つ目は結婚で、3つ目は出産です。

正確には、出産が1番最初に思い浮かびました。

次の手術、胸腔鏡ならまだしも、万が一肺全摘となった場合。片肺で子どもが産めるだろうか。もう何回目の手術だろう。手術の度に身体には負担がかかっていて、出産自体もそうだけど、その後の子育てだってとにかく体力が必要で。卵巣の凍結保存までして、切に子どもを望む私としては、次の再発までに、何としてでも産まないと!ほとんど条件反射的にこう思っていました。




2月下旬でした。
これを全て、パートナーに話したら、「全部叶えよう」と言ってくれました。


ただでさえ再発して手術をしなければいけないのに、こんな滅茶苦茶な計画に対して、どれだけ大きい器があったらそんなこと言えるんだろう。

留学なんて言ったら笑われるかなぁと思っていたけど、彼は全く笑わなかった。
「やりたいことを絶対にやった方がいい」そう言ってくれました。急に人生が明るくなったような気がして、再発が分かったばかりなのに、ワクワクが止まりませんでした。


こんな風に再発を前提に生きるなんて、批判もあるかもしれないけれど、いつも先のことを考え過ぎて身動き取れなくなってしまう私にとって、3年というタイムラインは結構ちょうどいいのかもしれない。




そこから、1人ではなく、2人で、2人の将来について話し合い、よく考えたら滅茶苦茶な計画であることに気づき(遅い)、改めて優先順位を考え、3月、結婚することを決めました。


ということで、結婚します!来月入籍します!


留学に期限なんてないもんね。おばあちゃんになってでも絶対行くぞ。やりたいことだって、日本にいても、どんな形でもできる。もう一回自分の気持ちに向き合います。




病気に振り回される人生だけど、病気のおかげで人生が動いた。



ちょっとだけロマンチックなお話でした。



写真は、元旦に登山した長野の車山です。














手術は無事に終わり、順調に回復しております。
播種はCTで見つかった1箇所のみでした。


麻酔から目が覚めて第一声は、
「何個ありましたか?」

3年前と全く同じ光景に両親は笑っていました。



手術の翌日にはドレーン、点滴、尿管、
全て抜けて、歩行のリハビリも始まりました。

回復のスピードは 3年前と変わっておらず
少し安心しております。

相変わらず喉元の痰が厄介です。

吸引、吸入をしてもらって
少し和らいだかな?



今のところ 手術の回数に制限はないと
言われているけれど、
やっぱりこんなに辛いのはもう最後にしたいな。



たくさん たくさん辛い思いしたけど、

楽しみはたくさん待っている、
この痛みの分、絶対返ってくる。


こう言ってくれた 友人の言葉が
とても励みになります。


今はとにかくよく寝てよく食べて
しっかり動いて
早く回復するぞ。


あっという間に手術前日です。
全然ご報告できていなくてごめんなさい。


世界中で、日々、夥しい数の命が落とされて
医療の現場も経済活動も大混乱の最中、
改めて 普通の日常を送ることのできる
尊さを感じるわけですが、


明日が過ぎたら より一層
その気持ちが強くなるのかな。


再発が分かってからここまで、
いろんなこと考えてきました。
今までとは違う角度で
病気と 人生と向き合ってみました。


精神論でも 綺麗事でもなくて
もっと戦略的に、
胸腺腫と共に生きていかなければ
ならないなと思いました。


なんとなくここまで
2.3年のペースで再発していて、
今回が最後だって
今度こそ信じたいけど、

前回だってそうやって信じていたけれど
あっけなく再発したわけで。


だから、
賛否両論あるかもしれないけれど、
きっとまた3年後に再発する、
そういう前提で生きることにしました。



3年後、30歳。
30歳までにやりたいこと、
全部やろって。


そこらへんはまた
手術が無事に終わったら書きます。






あと、何考えたかな。
やっぱり書き留めないと忘れてしまうな。


子ども産めるのかな、とか。
妊娠中や授乳中、CT撮れない期間に
再発したらどうするのかな、とか。
治療と生活を天秤にかける日が
くるのかな、とか。

産まないほうがいいのかな、
じゃあ何のために今治療するのかな、
何のために生きるのかな、
誰のためにも生きない人生の方が
やっぱり楽なのかな、とか。


いろいろ考えて、
考えることをやめたこともあるし
答えがわからないまま、
悩み続けていることもあるし。


周りから見たら、
私がこんな悩みを抱えてるって気付く人
誰1人いないんじゃないかな。

それはつまり、
人それぞれ 見えないところで
いろんなものを背負って
生きてるということなんじゃないかなぁ
なんて思います。





あとはですね、
今日 術前の説明に両親も同席したんですが、

CTには映らない1cm未満の播種が
複数出てきた場合どうするのか。
もう一度抗がん剤という選択肢はあるのか。
という母の質問に対して、

「あれは本当に辛かった。
本当に本当に辛かったよね。
あの抗がん剤は、とてもきついから。」
って先生。


あぁ、そっか。
やっぱり辛かったんだ。
辛かったこと、認めてもらえるんだ。
って 涙がポロポロ溢れてきて、
5年前、最後まで抗がん剤続けれなかったこと
心の奥でどこか後悔していたし
あの時耐えていたらって
振り返ることもあるし
だから 先生の口からその言葉が聞けて
すごく すごく救われたな。




いろいろ思うところはあるわけですが
明日 麻酔から目が覚めたら
そんなこと考える余裕もないくらいの
激痛に耐えなければいけないのです。
なんだかまだ実感が湧かないけれど。


さあ、気合!
おやすみなさい!














みなさま、たくさんのいいね、コメントありがとうございます。

更新する度に、この場所があって本当によかったと感じます。




初発から約5年半、今回で3回目の再発です。

このブログを初めから見ていただいている方は驚くかもしれませんが、なんと、もう、27歳です。アラサーです。



体力の衰えを実感する一方で、
精神的に少しは成長できた自覚もあります。



しっかり泣いて落ち込んだあと、
ちゃんと、立ち直りました。



今回の再発をうけて、いろいろと自分の中で
覚悟したこと、決断したことがあって、
そのあたりは少し落ち着いてから
書きたいと思います。



とりあえず、前回の外来では、
とにかく次の再発を防ぐこと、その可能性を最も低減する治療法を選択したいことを先生に伝えました。


で、あれば、できるだけ手術は早い方がいい、と。


今週、ペットCTを撮って、他に転移がないか調べます。



転移がないことを祈ります。


転移がなければそれだけで万々歳!




泣いても悩んでも現実は何も変わらないので、
次、どうしたらいいかを考えるだけです。



胸腺腫が私を強くしてくれました。







術後3年、再発してしまった。


いつになったら解放されるんだろう。

いつまで身体がもつんだろう。

いつまで消耗戦を続ければいいんだろう。



悔しいな。




術後2年、CT検査の結果を聞いてきました。


いつもの診察室3では、やや神妙な面持ちでY先生が待っていました。

この空気感はあまり芳しくないぞ、あぁ、再発かなぁ、と、これまでの経験から察知しましたが、Y先生は「問題ないよ」と言った後、ニッと笑いました。




最後に幼い演出をしてくれちゃって。



「今日で最後だよ。」

Y先生がそう言い終える前に、涙が頬をつたいました。


がんだと告げられたこと、自分の人生に責任を持てと怒られたこと、再発・再再発を言い渡されたこと、一緒に治療法を選択したこと、楽しく笑って過ごしなさいと諭されたこと。

先生との4年9ヶ月、診察室3での一瞬一瞬は、連綿とした映像として強く脳裏に焼き付いていて、今でもその映像が流れると、心にガシンと衝撃が走ります。





「成長したな。最初は、学生だったのに良く頑張ったな。」


「よく怒られましたよね。私が甘かったんですけどね。」


「ボーっと生きてんじゃねーよ!ってな!ハハハ」


「特に、再発してからは、生き方そのものが変わりましたね。夢もできたんですよ。」


………。





家族以外で、自分の人生を一緒に振り返ってくれる人がいること。

とんでもない幸せだ。




病気になったことは、もちろん私の人生の中でダントツトップ1の一大イベントで、そこから学んだことは、どんな参考書やビジネス本に書かれていることよりもダントツトップ1で尊くて、

それで、そこにオマケみたいなかんじで人との出会いがあって、って思っていたけど、


オマケなんかじゃない。
宝物。


先生にとっては、数多いる患者のワンオブゼムかもしれないけれど、私にとって先生は、一生心の中で輝きを放つ存在です。

きっと、私が道を誤りそうになったり、クヨクヨしたりした時は、レーザービームのように強烈な光を内側からあてて、また、ボーっと生きてんじゃねーよ!って叫ぶはず。




先生はよく、私に、先生が診ていた患者さんの話をしました。

こんな患者さんがいて、こんなにパワフルで、今はこんなことをしている。

この患者さんは、こんな仕事をしていて、キャリアウーマンで格好いい。

私も、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」って喝を入れられて、ちょっとだけど強くなった女性として、先生の会話の中に登場していたら、嬉しいなぁ、なんて思いました。






先生への感謝は、言葉でうまく伝えられる自信がなかったので、手紙にしたためました。


伝わっているといいなぁ。



またどこかで会えるといいなぁ。






寒さが厳しくなってきましたが皆さま元気でお過ごしでしょうか。どれくらいの方がこのブログを見てくれているのだろう。

最後の手術から、もうすぐ2年が経過します。良くなったと思っていた神経痛は、今でも時々悪さをし、抱え込むような痛みを催すこともほんのたまにあります。でも元気です。本当に元気です。


2年の間に、私には確かな意思が芽生えました。

書くことを、仕事にしたいのです。
私の文章で、世界に元気を送りたいのです。

もちろんきっかけはこのブログです。涙で世界がボヤける中ひたすら書いたこのブログが、今の私にそんな夢をくれたのです。

22年間いつだって私は自分の本当にやりたいことが分からずに、分かろうともせずに、「一般的にいいと思われる道」を選択してきました。そういう生き方が合っているとさえ思っていました。

安定した会社で、安定した収入を得られる環境がある今、胸のうちでメラメラ燃えたぎる炎の存在に気付きながらも、火が大きくなっていくのを外から眺めている、ただ眺めている、そんな状況です。

文章を書くって、何かを生み出す喜びと、何も生み出せない絶望と、その狭間で生きていくことなんだろうなぁ。と勝手に思っています。失うものはもう何もないと言いつつも、何かを失うことを恐れている。もっと衝動的になれたら楽なのに。


こんなことをつらつら書いていたってもう自分の中で答えは決まっていて、私が病気になった意味、生かされた意味、これからも病気と向き合い続けなければいけないという事実、全部夢へと続いているのです。病気の先に夢が生まれたのか、夢の前段にたまたま病気があったのか、分からないけどどっちだっていい。こんなに幸せなことはない。本当にそう思います。


だからここに宣言します。今までもたくさん宣言してきたけど。笑

少しでも多くの人が元気になれるような文章を書く。ワクワク、ドキドキ、心が高鳴る瞬間を生み出す。それを仕事にする。


相変わらず支離滅裂でわけのわからんブログですみません。宣言したからには、しっかり伝わる、分かりやすい文章を書けるように勉強しなきゃ。


文章を通じて、これからも皆さまと繋がっていれたら、そんなに幸せなことはありません。


写真は先月行ってきたクロアチアです!







今日は書きたいことが3つあります。


1つ目。
本日 レントゲン検査とY先生の診察の日でした。

CT検査は結果を聞く時、やっぱり少しはドキドキするけど、レントゲン検査で何かが見つかったことはないし、大抵Y先生と雑談して終わり。



次の診断の日を決める時、

Y先生「僕はこの3月で定年だから、そうだね、2月くらいにCT撮っとこうか。」




心臓が脈うちました。


寂しいとか そんな次元の話ではない。
21歳でがんだと言われた時も、片肺とらないとダメかもと言われた時も、再発の宣告も、再再発の宣告も、それはいつだってY先生の口から発せられて。


まるで、神の代弁者のような、私の人生の決定権はこの人にあるのではないかと思ってしまうほど、それくらい私の運命に一番近い人でした。

最初に発病した時 まだ大学生だった私に

「自立しなさい。親離れしなさい。あなたの人生なんだから。」

そう 厳しく 言ってくれました。



診察室3で 私は 何度も 何度も泣きました。

きっと 先生は私の涙に同情したことなんて1度もなかったけれど。

もし私の主治医が、
「絶対僕が治すから!絶対絶対大丈夫!前向きに頑張ろう!」なんて言う人だったら、私はあんなにも苦しんで、もがいて、自分の命を考え抜くことはしなかった。

きっと、このブログもなかった。




定年退職してもどこかの病院には所属するそうですが、恐らく、呼吸器外科がある病院ではないため、手術もほとんどしないそう。

「したとしても、ちょっといじるだけの簡単な手術だよ。老後の楽しみにはちょうどいい。」


またそんな倫理観のないことをいう、私の大好き主治医です。






2つ目。
占い大好きなので、2019年の占い本を買いました。

衝撃的な一言が書かれていました。




「3〜4年前に病気をした人は、再発します。」




私じゃん!!!


もし私が「3〜4年前に病気をしていない人」のカテゴリーだったら、こんな一文は2秒で読み流して終わりなはずなのに。。。

占いって当たるか当たらないかはさておき、うぉぉぉぉー来年も頑張るぞーって、前向きになれるような、ちょっと背中を押してもらえるような一言を期待して見るじゃないですか。


だから、こんなマイナスなこと言う本、燃やしてしまえって一瞬思ったけども。


でも、きっとこれは、ちゃんと健康に気を遣って、身体を大切にしなさいね、という神様からのメッセージ。


良くも悪くも、絶対再発しないと変な自信を持ち続けている私ですので、こういうアラートは貴重なのかも。よく寝て、身体にいいものを食べなさい、という自戒の気持ちで拝読します。






3つ目。
2018年も残り3ヶ月を切りましたね。
と同時に、私も26歳になります。ブログを初めて約4年。

信じられないスピードで時間が流れているなぁ。



周りも、結婚だったり出産だったりが増えて、いろいろなものが目まぐるしく変わっていく、そんな時期です。



でもこれだけは胸を張って言える。
私はいつも、「今が1番楽しい!」を更新しています。きっと26歳もそうなる。




今年は自分の中でいろいろ蓄えることを意識して過ごしています。


来年は少しずつ、夢を実現できたらいいな。





 長くなりましたが、読んでくださった方ありがとうございました。



写真は先月行った宮古島です。





毎日のように目にする
「死」に関するニュースや報道は、
どこか遠いところが起源の「情報」でしかないのに。


ひとたび我が身にふりかかると
一体どうやって この暗いトンネルを
抜け出したらいいのか分からなくなる。


これから 生きている間に
何度も何度も大切な人を見送って、
その度に失った虚無感に襲われ、
それでも 自分の人生を歩まなければいけない。


それならばいっそ
初めから 大切な人なんていないほうが
楽なんじゃないか、とか。
そんな辛いことを乗り越えなければいけない
人生なんてやめてしまいたい、とか。


そんな逆説的な発想が一瞬浮かんで
すぐに、打ち消しました。





がんになって思いました。

生きることは、死と向き合うこと。

それは、自分の死だけではなかった。
大切な人の死とも 向き合わなければいけないのです。




火葬場から お骨で出てきた祖父を見て思いました。



精一杯生きよう。