バッハとその時代を(適当に)理解しよう、定年になってからでは(エネルギーが続かず)やる気がしないような基礎的なところを今から準備しておけば、老後を(多少でも)面白おかしく過ごすことができるのではないかと信じ迷走しています。おかげで、ニーチェ(1844年-1900年)-マックスウェーバー(1864年-1920年)-ベンヤミン(1892年-1940年)-アドルノ(1903年-1969年)の系譜を(勝手な解釈ながら)なぞることができた。ほんとうは何も理解していない訳ですが、その理解の不完全さをすこしずつ埋める作業も楽しいと思っている。
  ★
さて、これらの人々は、われわれに何を残したのか?「何も新しい観点を示していない」とか「壮大な失敗」という評価さえある。しかしながら、ナチスドイツ(及びソビエト共産主義)の崩壊の後、誰もイデオロギーなど信じなくなり、価値の相対化と複雑化の中で、(芸術の)方向を見失ってしまったような現代において、これらの人々の(現代から見ると時代錯誤の)化石のような著作の中、(ある意味新鮮な)批判的精神を知ることができる。そのアプローチは、余計なものを切り捨て本質を恣意的に選び取るような単純化ではなく、余計なもの、矛盾点、対立そのものを分析の対象にして、何度も同じところを通り過ぎながら、その多様な面を断片的な考察でつなげながら、輪郭全体をなぞっていく。私はその世界に不思議な魅力とノスタルジーを感じる。
  ★
西部戦線異状なし-レオンハルトなお、いま聞いているのは、レオンハルトのこのCDです。収録曲は下記。
○BWV903:半音階的幻想曲とフーガd-moll
○BWV992:カプリッチョb-dur
「最愛の兄の旅立ちによせて」
○BWV904:幻想曲とフーガa-moll
○BWV906:リュートのための組曲e-moll」

これらは、どちらかと言えばバッハの初期の作品のようだ。いずれの曲も私の耳には心地よい。なお、このCDのライナーノートでは、BWV996はまだ「真作かどうか疑問をもたれている」と書いてある。これが他の人の作曲となると、私にとっては思い入れがるだけ、困ったことになる。

で、首記の話です。

●アドルノとベンヤミン
ベンヤミンとアドルノは伝統的な芸術の凋落を同様に感じていたが、アドルノはすべての芸術に対して孤高の批判的立場に立つ。一方、ベンヤミンは新しい”映像芸術”にある種の期待を持っていた。ベンヤミンは、写真や映画のなかに、従来の芸術にない大衆性と社会批判力にアウラ無き「複製の」時代の芸術の可能性を見出したようだ。一方、アドルノは、その大衆化された芸術への楽観的期待を「甘い」と批判する。両者の違いは、スタンスというかウェイトの違いに過ぎないのか、または歴史観とか社会観というか基本的認識の違いなのだろうか。このところ、かなり興味があるが、私のわずかな知識ではとても判断できない。
  ★
アドルノは、映画の再現的迫真性、映像と音響の力強い統一といったものに警戒心を持っており、文化産業に飲み込まれた大衆文化を蔑視していた(ここらは反感を感じる方も多いだろう。当時もかなり批判されたようだ。)。芸術と現代的生活とのあいだの距離を縮めることは、アドルノが捜し求めていた救済とは正反対だった(らしい)。では、アドルノが求めていたものはなんだろうか。私にはこれがわからないが、なんとなくわかるような気もする。
  ★
なお、この大衆の芸術の受容に対する議論は17世紀に遡る。モンテーニュ(1533年-1592年、ルネサンス期のフランスを代表する哲学者)。とパスカル(1623年-1662年)の著作の中に、最初の論争が展開されていると「アドルノ」(岩波現代文庫)の著者は言っている。モンテーニュは、大衆が「気晴らし」の果たす健康上の役割、庶民がますます増大する社会的抑圧に適用することを可能とする役割を擁護した。これは、(当然ながら)正しいし、あまりに妥当すぎる(平凡な)判断と思う。一方、魂の救済を人間の最高の状態としたパスカルは、大衆の娯楽を、現実逃避で文化の品位を傷つけるものとして侮蔑した。アドルノは、さすがに「魂の救済を人間の最高の状態」とは考えていなかったが、大衆文化を「上から冷笑的に押し付けられた全く作為的なでっちあげ」と侮蔑しており、その立場はパスカルに近い。
  ★
なお、ベンヤミンは、(どちらかといえば)マルクス主義の立場で、大衆の文化の受容形態(気晴らし)を容認する。彼は、大衆の文化の受容は「慣れ」だといっている。たとえば、「建築物は作られたときには、その芸術は完成されていない」という。それは、人々に使われ慣れるという繰り返しの受容により、その芸術というか文化が完成するという。ここらはモンテーニュよりは、鋭い視点で「芸術」を見ているように思われる。そうすると、アドルノとベンヤミンは、やはり基本的認識が違っていたかもしれないし、ベンヤミンが最後までヨーロッパに留まった理由に繋がるのかもしれない。

●最近購入した本
●イエス・キリストの言葉―福音書のメッセージを読み解く/ 荒井 献 /岩波現代文庫
西部戦線異状なし-aaaバッハの宗教曲をそれなりに理解するためにといっても、あの膨大な聖書を読むのはつらい。やはり聖書は「信者」の方が読む本だ。それで、例の如く"(とりあえず)解説書”というのが私のアプローチです。実は、先に読んだ「聖書時代史(新約編)」を買ったときに、セットで読もうと考えていました。この本は、キリスト教でない読者にも「古典」として読めるように「イエスの言葉をそれぞれの福音書を書いた記述者の立場や時代背景にそって読み解き、現代に生きる読者にどのようなメッセージを投げかけているかを探る」本らしい。
  ★
この本を読んだらキリスト教を知ることができるのだろうか・・・。おそらく、そんなことはないだろう。それゆえに、私にとってバッハの音楽は永遠に謎の存在なのかもしれない。大学時代、私のサークルに「キリスト教徒」の後輩が入ってきたときの「異邦人」のような感覚。それが、私のバッハ体験につながる。

・・・ということで。
先週は2泊3日で郷里に行って帰ってきました。また、明日は休暇で2回目の夏休みです。
西部戦線異状なし-青葉通り仙台に暮らしているときは当たり前でそんなに大したことが無いと思っていた青葉通りや定禅寺通りののけや木並木の緑のトンネルが、しばらくぶりに見るとかなり新鮮に感じました。最近の長雨で木々の成長が速いのか空が見えない。信号が見えにくいという苦情もあるようですが、心地よい。仙台で緑を多く感じるのは、堤防で仕切られていない自然のままの広瀬川、青葉山と市街地の街路樹があるからですが、駅前は地下鉄工事でだいぶ緑が減った。また、新しく作られる道路は、他の都市と同じく緑まで手が回らないのが気にかかる。都市計画をやりたいと言って工学部の建築課大学院をけって仙台市役所に就職した「Hori○」、今は偉くなっていると思うが、お金が多少かかっても要所にはちゃんと緑を残してほしい。なお、君のせいではないが、市電も残してほしかった。
  ★
西部戦線異状なし-大念寺仙台では、両親のお墓まいりをしましたが、青葉山の隣の向山にある大念寺(宗派は黄檗宗)の周りの緑の木々が生き生きとしていた。ただ、南のほうでは豪雨で多くの方が亡くなったし、東北の稲の生育も悪いらしいので、あまり手放しでは喜べない。なお、一応、七夕も見ました。



で、帰省中に読んだ本の話。
●ベンヤミン「複製時代の芸術作品」精読/多木浩二
西部戦線異状なし-ベンヤミンバッハを知るために始めた音楽関連の本の探検も、アドルノまで行ったら、やはりベンヤミンも読んでおくべきと思い、この本を購入。ただ、アドルノに比べ、この本は、言っていることは判りやすい反面、その中で彼は何を言いたかったのかが難しかった。なお、この文庫の『精読』シリーズは、後ろに原文が入っているので、解説と本文を読めるのでいい企画だと思う(おそらく、大学の学生には便利なアンチョコになるだろう)。以下は、私自身の頭にの整理のため、覚書を多少書きとめておこうかと。

著者/多木浩二
批評家(美術評論家・写真評論家)らしい。1928年生まれ。実は私はこの人の本を以前読んでいます。岩波新書の「ヌード写真」というやつです(今は捨ててしまって持っていない)。中身は「ヌードの社会学」というようなかたい内容で「がっかり」した記憶があります(当時は私も若かったし、つまり動機が不純なので全然理解していない)。Wikipediaで調べて見ると立派な人のようだ。
ベンヤミン
この本の最後に書いてある経歴を写しておきます。なお、私はアドルノからの流れでこの本を読むまでは、ベンヤミンの名前は聞いたような気がするが、全く知らなかった。岩波新書の「ヌード写真」で出てきたかもしれない(忘れた)。
○1892年生まれ、ベルリンの裕福な家庭に生まれる。
両親はユダヤ教だったが戒律は守っていなかった。ただ、ベンヤミンの思想は、ユダヤ神秘主義とマルクス弁証法が共存した特異な存在(結局教条的"マルクス主義"ではない)とみられている(らしい)ので、この生い立ちは重要と思われる。
○1919年ベルン大学で「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」で博士号を取得
○1925年フランクフルト大学に教授資格論文「ドイツ悲劇の根源」を提出したが拒否される。
○1933年ナチス政権成立とともにパリに亡命。フランクフルト社会研究所の共同研究員となる。
○1940年ドイツのパリ進攻でマルセイユに出てアメリカに渡ろうとしたが出国ピザが取れず失敗。スペイン入国も拒否され、ピレネーを越えスペインに入ろうとしたが、スペイン警察から強制送還の脅しにあい、服毒自殺。
この本の書かれた時代
この本を読むには、ファシズムが芸術をも飲み込みつつ勢力を増している状況、絵画等の伝統の芸術が大衆化の中でそのアウラを喪失していく、その中で、写真そして映画という"最新の複製"芸術が、その未完成のなかで形作られていく、そういう状況を多少知っておく必要があるだろう。今では当たり前のことですが、絵画や彫刻が美術館という展示場に移されていくという過程も、ベンヤミンにとっては、アウラの喪失として映っていた(ようだ)。なお、この「複製時代の芸術作品」は、難解なベンヤミンの著作のなかでは判りやすい本で、ベンヤミンによるベンヤミン入門の本と、著者の多木さんは言っている。

ベンヤミンの芸術観
ベンヤミンは、以前、芸術は宗教と結びついた礼拝の対象だったという。それは、石器時代の洞窟の絵画から始まる。それれが、近代に入り芸術が宗教と分離し、芸術の大衆化、例えば、絵画や彫刻が、もともとあった一回限りの場所から大衆のための「美術館」に移動する過程で、その芸術作品が持つ「アウラ」(これは「オーラ」と言ったほうが判りやすいかもしれない)が喪失しでくる。そのような従来の芸術の凋落の時代、その一方でファシズムが席巻し芸術を政治的プロパガンダにに利用される中で、ベンヤミンはその大衆による芸術の受容の世界を新たに位置づけようとしたようだ。
  ★
かれは最初は「複製」に否定的だったが、その後「複製」に積極的に関わろうとすると共に、「複製」に感じる違和感の正体を明らかにしながら、「複製」を足掛かりにして、(私には良くわからないが)人類の歴史の危機を語ろうとしたようだ。このところ、ベンヤミンの言葉は下記の通り。

芸術作品の複製が可能になったことが、世界史上初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる。・・・芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は相対的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は真の実践を、つまり政治を根拠とするようになる。

結構過激な内容です。
何度も言いますが、ファシズムが新しい芸術を取り込もうとしているのに対抗し、ベンヤミンは芸術を反ファシズムの中で(必死に)大衆側に位置づけようとした。完全に芸術産業に取りこまれ、その中で「芸術」が生きていると思われる現在から見ると、アナクロニズムとノスタルジーを感じる。それは私が「小市民」(この言葉も死語に近いが)に属しているからだろう。
  ★
え~と、ファシズムによる政治の芸術化に対し、ベンヤミンは芸術の政治化で対抗しようとした。政治の究極の芸術化は戦争賛美であり、その典型を北朝鮮の「芸術を愛する」金正日に見ることができる。ただ、金正日自身は、アメリカ帝国主義に対抗し大衆の側に立って芸術を「推進」いると思っているだろう。ナチスドイツの崩壊を見ずに死んだベンヤミンが、アドルノのように戦後の冷戦構造とアメリカの高度大衆社会の芸術を見たらどう批評しただろうか・・・。
  ★
また、付け焼刃の知識で考えると、バッハの生きた時代は、芸術が「アウラ」を持っていた最後の時代と位置づけられないか、そして、その後の200年の西洋音楽は「アウラ」の喪失と回復の試みの時代と解釈できるのかもしれない。また、この試みを破壊するのがシェーンベルグの「無調音楽」であり、そこに革命的意味があったのだろう(なお、アドルノは彼の無調音楽を評価し、セリー主義に移っていたシェーンベルグを辟易させた)。ただ、その"革命"は大衆が(ほとんど)理解できなかったことで失敗したと思うが・・・。これこそ、私のおばさん的ステレオタイプの理解なのかもしれない。

・・・ということで。
なお、ベンヤミンは「大衆の芸術の受容」に面白い考察を加えている。これはその2で書こうかと。

追記)
上野に、最近行っていないですがギターの店「アウラ」があります。この「アウラ」の由来は、ベンヤミンの言う「アウラ」なのだろうか。そうだとしたら、この店長は(私と違って)頭がいいんだな~と思った。そして、ほんとうの文化系(経済工学とかをやるやつではない)と理科系の人間は、やはり世界が違うのではないかと今になって思う。
私は現実の政治には(あまり)興味が無く、もろもろの社会現象の一つとして見ています。ただ、人々のために(それが偽善であろうが)活動又は援助している方々には(私がやっていないだけ)頭が下がります。また、「何もしないほうが世の中のためになる」という人もいるように思われる。そして「マニフェスト」という言葉を覚えた。
  ★
「私のマニフェスト」はだいぶ前にブログで宣言した「バッハ全曲踏破」で、自己評価は「着手し努力しているが、いつぃ達成するかわからない」という、どこかの政党と同じものです。なお、その過程で「バッハ全曲踏破」の意味そのものも変わってきた。当初は、器楽曲以外の宗教曲の豊富さを知り、図書館で全集を発見したので全部聞いてみようと安易に考えたのがはじまりですが、その過程で読んだ音楽関連の本の世界に引き込まれた。そして、今は「簡単に出口に出てしまうには(あまりに)もったいない」ので、「バッハ全曲踏破は遅いほど良い」と考えています。そして、これは、モーツアルトでも、ベートーベンでも、ソルでもタレガでもなく、やはり「バッハ」でなければならなかったと思っています。
  ★西部戦線異状なし-プレスティ
以前、銀座山野楽器で(ひさしぶりに)立ち読みした現代ギターで「イダ・プレスティ伝」をやっていた。彼女は私にとっては特別なな存在であり、その生い立ち等におおいに興味があります。図書館で借りて、その部分をコピーし読んでおこうかと。おそらく、私の知らないプレスティを知ることができると思う。



●聖書時代史 新約篇/佐藤 研/岩波現代文庫西部戦線異状なし-聖書時代
「バッハ全曲踏破」の一環で、首記の本を読んでます。
この本は、ローマ皇帝の迫害にもかかわらずローマ帝国に浸透しキリスト教が公認され440年にローマカトリック体制が確立するその前の時代、イエス誕生から、ユダヤ教イエス派(「原始キリスト教」ともいうらしいが、この本ではこの時代は「キリスト教」ではないとしている)の変遷と、パウロが殉教した以降、聖書の収集、編纂がなされ「キリスト教」が形作られる西暦200年頃までのことを、当時の支配者の動向と合わせて時代史としてまとめている。
本の構成は下記。
●第1章 ナザレのイエスの生と死(BC30年~AD30年)
この時代のイスラエルの政治状況やパレスチナ・ユダヤ教の流れ、イエスの生家の状況、史実として「イエスの洗礼」の話、当時の常識では「結婚」していたかもしれないということなども書いてある。
●第2章 「ユダヤ教イエス派」の活動
第1章、第2章を読むと、やはりキリスト教はユダヤ教の一派から成立したというのが良くわかる。そして有名なパウロの回心について「神の鞍替」えではなく「イエスの復活(体験)」を受けて神の救いの認識から、いままで迫害してきた人々に対する価値の逆転が生じたということが淡々と書いてある。そして、ユダヤ教とイエス派の住み分け(イエス派はユダヤ人以外に布教を行った)の話などが書いてある。
●第3章 パウロの伝道活動とパレスチナ・ユダヤ教の滅び(AD45年~AD70年)
この本は、各章で当時のローマ帝国の政治動向を概観し、その対比でエルサレムの状況とイエス派の状況を記しているので、判りやすい。この時期、大きな出来事は、ローマから独立を指向するユダヤとローマ帝国の抗争で、これは、ユダヤ教の終末思想(滅亡のとき神が降りてきて最後の審判を行う)も関連していた。そして、抗争の結果、AD70年には、エルサレムは徹底してローマ帝国に破壊され滅亡にいたる。その後しばらくはエルサレムへのユダヤ人は入れなかったらしい。このとき、崩壊したエルサレム神殿の壁が有名な「嘆きの壁」らしい。なお、パウロ自身は、自分を「ユダヤ教」と同じ神を信じる「ユダヤ教の一派」と考えていて、「キリスト教徒」とは思っていなかった。それ故に、パウロはイスラエルに戻りそこでつかまり、ローマに送られ(2年後に)処刑される。
●第4章 キリスト教の成立(AD70年~AD100年)
このユダヤ戦争のとき、イエス派は非戦を唱え、絶望的な終末思想に走るユダヤ教徒から、異端視された。そして、エルサレム壊滅を機に、イエス派がユダヤ教から独立し自立の道を歩みはじめる。著者はここからが「キリスト教」と言っている。そして、「キリスト教」のアイデンチティ確立をめざして、種々の文献を収集、編纂がおこなわれる。そして、イエスの凄惨な没落と死と再生の伝承的物語「福音書」が成立たし、「パウロの手紙」の収集され、聖書の原型が形成された。
●第5章 キリスト教の伝搬・迫害・内部抗争(100年~200年)
・・・あとで記載。

この本はいわゆるキリスト教成立過程で教団がいかにしてその苦難を乗り越えたかというような、宗教的啓蒙書ではない。おそらくかなりあいまいな情報から、初期のキリスト教成立過程を、当時の社会動向と合わせて淡々と歴史教科書風に記述している。それ故に、ニュース映画を見る感じがしたが、(この世界を私が全く知らないだけに)バッハの宗教曲の背景が少し理解でき、参考になった。
  ★
ただ、この本のあとがきに、「キリスト教を標榜しながらもあまりに交戦的な超大国・・・、現代のキリスト教は将来に対するビジョンを与えることができないでおり、自己変革の岐路に立たされている・・・」という記述がある。こんなことは「いまさら」かと・・・。

●ベートーベン交響曲第7番/カルロスクライバー指揮バイエルン国立(州立?)管弦楽団西部戦線異状なし-クライバー
先週、お茶の水の中古クラシックCD店のSACDコーナーにで見つけ、特に探していたわけではなかったのですが、ひさしぶりにベートーベンの交響曲でも聞いてみようかと思ったことと、値段(1200円)で購入。第一印象は、う~~ん、なんか私の記憶の感じと違うな~と言う印象でした。HPで調べると名演らしいが、あっさり弾きすぎているように思われる。いわゆる「シャープで現代的な演奏」ということになるのだろう。家にはこの7番は2つほどCD(チェリビダッケと後は忘れた)を持っていたはずなので、聴き比べてみようかと。

・・・ということで。
出張先の大阪のホテルで書いています。
昨日、首記の本を読みました。時間もないので、簡単な感想を少し。

●音楽の聴き方-聴く型と趣味を語る言葉/岡田睦生/中公新書西部戦線異状なし-音楽の聴き方
(ホテルで読んだ直後の感想)
タイトルからは、つまらないノウハウ書の印象を受けますが、「入門書」としていい本だと思います。後半では私が読んでいるアドルノも出てくる。結構読みやすいし(ある意味)考えさせられる。その一方で、アドルノのような難解な修辞学的文章(日本語訳ですが)にはまってしまうと、アドルノの「難しい」文にも懐かしさも感じる。

(家に帰ってからの追記分)
この本の第一印象は良かった。ただ、そのあと少し考えた。
本の構成は下記。
○第1章 音楽と共鳴するとき-「内なる図書館」を作る
○第2章 音楽を語る-葉を探す-神学修辞から「わざ言語」へ
○第3章 音楽を読む-言語としての音楽(「音楽の正しい朗読法」
○第4章 音楽はポータブルか?-複文化の中で音楽を聴く
○第5章 アマチュアの権利-してみなければ分からない(音楽は社会が作る/音楽が社会を作る?
○文献ガイド
○あとがき

私はこの本を、ホテルで1章、4章~最後まで、2章、3章の順に読み、帰りの飛行機の中で整理のため読み返しました。気楽な、その後少し考えさせる「音楽(の聴き方)入門書」であり、岡田さんの悪戦苦闘の成果と思われるのですが、残念なのは、やや「まとまりが無い」という印象。私が最近知った「音楽美学」の「入門書」という趣旨なら、また違った書き方があったと思われるが、「音楽美学」の世界は、奥が相当深く「哲学」「社会学」に精通し、そのうえ音楽を知っていないと、鳥瞰的な「解説書」は書けないのだろうと感じた(また、そんな本が売れるとは思えない)。そういう感想をこの本から受けた。私の勝手な評価ですが、前半の「音楽理解の引き出しの多様性」の紹介と、後半の「音楽美学」という世界の「道しるべ」という観点のバランスは、必ずしも成功したかどうか・・・。この本は「未完成」ではありますが「未完成」が故に、私にとって考えさせる面白い本でした。
  ★
下記は、この本のメインの感想ではありませんが、むしろこのところが面白かったということです。
(ホテルで読んだ直後の感想その2)
○私にとって参考になる「文献ガイド」が書いてあるのはすばらしい。私の読もうとしている本がかなり出てくる。先を越されたというか、当然ながら「本業」の方にはかなわない。そして、紹介された本は、私の老後の道しるべになると思われる。
○その「文献ガイド」で、片山杜秀の「音盤考現学」、「音盤博物史」を「奇書」と断定していること。私も片山さんの博覧強記は「凄い」と思いますが、「音楽の評論なんてどうせ客観的なものなどあり得ないので、想像力と類推力を武器に、なんでも料理してやろう」として勝手な世界を力技で構築してしまうのは、やはり「奇書」としか言いようがない。その一方、岡田さんは村上春樹の「意味がなければスイングはない」を評価している。ここらの感覚は、おこがましいが私に近い。
○岡田さんは本文の冒頭で、音楽を感性のあるままに聞くことなどできない、「内なる図書館」で聴いていると言う。そして「内なる図書館」はその時代の文化の影響を免れないと主張する。この「内なる図書館」とは「私自身」ではないかと思われる。そうすると「音楽は”今を生きている私”が聴いている」ということになるが、その言葉には深い意味があるということだろう。このような観点には共感を感じる(単に影響を受けただけかもしれないが・・・)。

この本を読んで、この本の意図は違うと思いますが、私が最近知った付け焼刃の知識「音楽美学」の世界を少し広げることができました。
・・・ということで。
介護で仕事をやめ郷里に戻った義理の弟などに仕送りをしている。それやこれやで、小遣いは食費を除くとおそらく平均的サラリーマンのこずかいより少ない。それで、お金よりドキドキというか、しみったれの生活をしている。ただ、仕送りしてもまずまずの生活ができるだけ(かなり)めぐまれた方と思っている。それやこれやでボーナス時のささやかな臨時収入は有難い。そのお金の一部を何回か貯めてスパーオーデイオプレイヤーを購入した。今のところこの形式のCD(ハイブリッドCD)は下記4枚です。

●バッハ:クリスマス・オラトリオ(全曲)/アーノンクール西部戦線異状なし-クリスマス
●J.S. バッハ:カンタータ全集 Vol.36/BCJ
●ポピュラー・スパニッシュ・ギター/J.ブリューム
●無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ(全曲)/山下和仁
まず、これらのCDから聞いて、また、すこしずつSACDを購入していこうと思いますが、SACDは自宅でしか聞けない(いまのところ録音できない)ので、ボーナス毎に買う程度で良いかもしれない。その中で、今までつまらないと思っていたCDを見直すこともあると思う。なお、SACDの感想ですが、あるブログをみて(全く)同感したのを引用しておきます(このような表現は、私にはできないので勝手に引用しました)。

SACDは音の出方が自然でノーマルCDはエッジの利いたシャープな音だ。・・・。ヘッドホンで聴いてみるとノーマルCDの時は思わずボリュームを絞りたくなる。反面、SACDはもっとディテールまで聴いてやろうとボリュームを上げたくなるような。SACDってアナログっぽい音だなぁ、というのが実感です。・・・。いわゆる聴き疲れしない音といったら良いのでしょうか。デジタル録音というのを忘れてしまうような音でした。こりゃあSACDにハマってしまいそうや。

で、首記の話。

●アドルノ/マーティン ジェイ/(岩波現代文庫西部戦線異状なし-adoruno
おそらく私はアドルノ(1903年-1969年)を本当に理解することはないだろう。なんせ、バックグラウンドが違うし、彼の論文は安易な理解を拒否している。そんな私でも、相対化が極度に進んだ現代の価値観からみて、たった数十年前の時代の評論がゆえに(化石を見るような)違和感を感じるところもある。ただ、その中に、捨てがたい鋭さがあり、読む前と読んだ後では同じではいられないような何かがある。そのような断片を抜き書きで書いてみよう。以下、この本で引用されている原文です(引用の引用)。

「芸術は、その最高の高まりにあってさえ仮象にすぎない。しかし、芸術はおのれの不可抗力であるこの仮象を、仮象ならざるものから受け取る。・・・。芸術は、それがニヒリズム的だと非難されるばあいにはそれだけいっそう、必ずしもすべてが無にすぎないわけではないことを告げている。・・・。代替可能な交換世界の対する抵抗のなかでも根絶しがたいのは、世界の多彩さが失われることを望まない眼の示す抵抗であろう。仮象のうちには、仮象ならざるものが約束されている。」(第1章「ある傷ついた生活」より)

「物質的現実が交換価値の世界と呼ばれ、一方、こうした世界の支配の受け入れを拒否するものこそが文化と呼ばれるものであるが、そうした拒否は、現状の続くかぎりでは、たしかに見かけだけのものでしかあるまい。しかし、自由で公正な交換ということからしてすでに虚偽なのだとしたら、交換を否定するものは、同時に真理に与することにもなろう。つまり、商品世界の虚偽の前では、それを告発する虚偽(文化)でさえ矯正手段になる。」(第4章「操作としての文化、救済としての文化」より)
そして、アドルノの称賛する芸術作品と非難する芸術作品の分離ラインを、ほかでもない、その作品が前記の問題点においていかなる位置を占めているかによって定める(この本の著者の記述)。

芸術作品の社会に対する関係は、ライプニッツのモナドに例えることができる。芸術作品、とくに概念に縁遠い音楽作品が、窓を持たないにもかかわらず-つまり、社会を意識せず、そうした意識をつねに必然的に持っているとは限らないのに、社会を表現するものである。音楽はそれが、それが社会に秋波を送ることが少なければ少ないほど、かえって社会をいっそう深く反映する。(第4章「操作としての文化、救済としての文化」より)

これらのアドルノの言葉引用しても、これだけ読むと「簡単なことをやたら難しく言っているに過ぎない」という印象を持つ。だから、アドルノの本を、丹念に読まないと(その背景が)理解できないことになるし、アドルノはそれを嫌ったのだろう。そして、これが、このような解説書だけで理解しようとすることのの限界なのかもしれない(つまり、原本を読んでこそ解説書が意味を持つ)。

●F尺度
ついでに、HPで偶然見つけたアドルノのFスケール(ファシズム度)テストをやってみた。
下記のような(旧時代的)分類がなされている。
1.00点 ポポロ階級(男性)
3.49点 都市住民(女性)
3.51点 女子大生
3.62点 中産階級(女性)
3.68点 都市住民(男性)
3.69点 中産階級(男性)
3.73点 囚人(男性)
3.74点 服役軍人
3.84点 一般人の平均
3.86点 労働者階級(女性)
4.06点 理系大学生
4.08点 社会奉仕団体(男性)
4.19点 労働者階級(男性)
6.00点 神族院議員

おそらくこの数値は、すでに現代のものではないと思うが、私は「ポポロ階級」と「都市住民(女性)」の中間でした。現代人であれば、F尺度の高得点は取れないと思いますが、如何でしょうか。気になるのは、当時(いつかは不明)一般人の平均がかなり「高得点」であるのが気になる。

・・・ということで。
まずは、音楽にあまり関係がないかもしれない「安全文化」の話。
ほんとう(本当でない場合がある)に「安全」を最優先事項とする組織文化を醸成するには、「コミュニケーション」、「報告する文化」、「公正な文化」、「学習し続ける文化」が必要と言われている。そういえば「柔軟な文化」というのもあった。実は、この関連で少し気になっていることがあります。「No Blame Culture」というやつです。これは、え~と、「罪を憎んで人を憎まず」ということで、「罪を創りだす社会(又は管理体制や設備設計)」を憎むといことです。では企業文化の中で、この「No Blame Culture」は前記「公正な文化」「と両立するのだろうかということです。
  ★
悲しいことに、人間は(いろいろな要因で)ミスをする。
そのミスの原因を分析すると、必ずしも個人のみではない問題が多かれ少なかれ出てくる。
この2つは相反する考えと思っていたが、最近はそうではないと思っている。
基本は、
●「No Blame Culture」は現場に対し、
●「公正な文化」は、どちらかと言うと経営層を含む管理者に対し、
●そして、管理者は「No Blame Culture」の立場で、現場から課題と知恵を期待し、
●管理者は、その提言を真摯に受け止める
●だから「コミュニケーション」が大事
ということになるのではないか。
それが当たり前そうで難しい・・・。
  ★
もう一つ、錦糸町界隈のはなし(痛恨の失敗)。
浅草かっぱ橋(台東区中央図書館)に本を返しに錦糸町の4車線の大通りを車で走っていた時。
少し早い時間だったせいか車が少ない。
そうすると、赤信号で、横断歩道を堂々とわたっている大人二人がいる。
急ブレーキをかけ、その交差点で徐行し、クラクションを少し鳴らした。
そこで、始めて気が付いた。
こちらを振り向いた二人は、なんと「や~さん」でした(たぶん)。
まず、人相と歩き方が違う。そして、その表情は「なに~」という感じ。
私は、ついつい車の中で頭をを下げてしまった。
こちらが「頭を下げた」せいか、それでことなきを得ましたが。
錦糸町界隈は、相撲取りも多いが、「や~さん」が多いということ忘れてた。
「公正」を守るのは難しい・・・。

●買った本
西部戦線異状なし-あどるの●アドルノ/マーティン ジェイ/(岩波現代文庫
マックス・ウェーバーの本と並行して、図書館で借りたアドルノの「音楽社会学序説」を読んだせいもあり、テオドール.W・アドルノ(1903年-1969年)に興味を持った。それで、入門書として、この本を昨日買いました。そうそう、ベストセラーの村上春樹の新作を(人並みに)読みたいと思っていますが、彼の本はいつも文庫本になってから読んでいるので、2年後あたりに文庫化されたら読もうかと・・・。
著者ジェイ,マーティン
1944年、ニューヨーク生まれ。アメリカのドイツ思想研究の第一人者
本の構成
●序文
アドルノは、思想の内容をその表現形式から切り離そうとする試みに対しては、きわめて懐疑的だった。う~ん。この言葉は深い。これは入門書や解説書を否定している。この言葉は、今の(読み易い)新書ブームに警告を発しているようだ。でも、新書、解説書が無いと、私もここまではこれなかった(結局、何も理解していないのかもしれないが・・・)。
●第1章 ある傷ついた生活
アドルノが1903年にフランクフルトの裕福なワイン商人の家に生まれた。
15歳から週に1知度「純粋理性批判」を読み始めた。1921年フランクフルトのゲーテ大学に入学。1925年は、ウイーンのシェーンベルクの周りに集まった革新的な作曲家のサークルに入会。シェーンベルクは、そのころ無調性から12音技法のセリー主義に向かいつつあった。ただ、アドルノが共感を感じたのは初期の「無調主義」にあった。そのためか、ウイーンの恩師たちにはあまり気に入られなかったようだ。・・・それやこれやで、ここではアドルノの経歴が概観される。そして、彼の思想には、二十歳のころに参加したシェーンベルグを囲むのサークルでの無調音楽の知識が関連しているらしい。この意味は良く理解できないが、この本を読むと判るのかもしれたい。確かに「不協和音」という著書もあった。これも読んでみたい。
●第2章 無調の哲学
第2章以降は読んでないが、彼の哲学思想が概観されている(らしい)。
●第3章 砕かれた全体性
彼の社会思想が述べられている(らしい)。
●第4章 操作としての文化、級材としての文化
ここでは、大衆文化、文化産業を含めアドルノの音楽論が述べられている(らしい)。

アドルノの論文は後に「アドルノ流のドイツ語」と評され、「ごくありきたりのことを、ただ大げさな言葉でかたるだけ」と批判されたらしい。著者は「アドルノの著作は、受け身の読者が何の努力なしに彼の思想を受け入れるのを防げるように、敢えて難解な表現で入念に仕組まれている」と言っている。そして、訳者あとがきに、この本を読んだえらい先生から「アドルノの思想がこんなに判りやすくていいのか」と言われたと書いてある。実は、マックスウェーバーと近代も2回目を完全には読み終えていないですが、これも並行して読んでいこうかと。それで、多少なりともアドルノが理解できれば・・・。そして、それが音楽の理解につながればと思っています。

このような、歴史的な文化的背景から音楽を理解するというアプローチは(多少)邪道のきらいもありますが、私にとっては、作曲家個人の物語的なアプローチより、その音楽により面白みを感じる。これは、わたしだけだろうか。

・・・ということで。
この本を、音楽関係書として読んでいます。斜め読みの後、多少ゆっくり読んでいます。やっと姜 尚中さんの言っていることか(なんとなく)判ってきた。というか、マックスウエーバー研究学者は、マックスウエーバー的論理展開にみんな感化されてしまうのではないか。そして、そのような言い回しで書かれているこの本が面白くなってきた。

●マックスウェーバーと近代/姜 尚中/岩波現代文庫西部戦線異状なし-マックスウェーバー
まえの、マックスウエーバー入門/岩波新書も面白かったが、これも違った形で面白い。というのは、「入門」とちがって、マックスウェーバー全体に取り組んでいる。そして、ユダヤ教からキリスト教の思想的展開も知ることができる。とにかくその表現がおもしろい。そのいくつかを覚書として書いておこう。
構成
序章 いまなぜウェーバーか
第1章 西洋的合理化の起源-古代ユダヤ教に即して
1節 宗教的脱魔術化
2節 事象化と同胞愛
3節 脱魔術化の起源
4節 原始キリスト教
第2章 西洋的合理化と近代の時代診断-近代西洋の意味像
1節 「職業としての学問」をめぐる相克
2節 学問の危機と危機の学問
3節 学問の合理性と専門知
4節 学問の職分と専門知
第3章 合理化と近代的な知のアポリア
1節 「高度資本主義」と「時代診断」
2節 神中心の世界像と事象化の精神
3節 若干の展望
4節 学問の職分と専門知
第4章 アメリカニズムの倫理と「帝国」の精神

私の勝手な印象ですが、姜 尚中さんはタイトルの付け方は「ヘタ」ではないか。

覚書
とりあえず、思いつくまま書いてみよう。
●「序章 いまなぜウェーバーか」
○以前は、社会現象に対するアプローチとして「ウエーバーかマルクスか」という議論があったらしいが、価値の相対化が進んだ現代、マックスウェーバーは忘れ去られた存在だった。
○ただ、その後「近代」の底割れの状況になり「地球全体が文明に飲み込まれてしまった現在、内定崩壊の中で、数え切れないほどの人間が、文明と無縁の野蛮な生活状態に突き落とされ」ている。
○この「近代のなれのはてが野蛮に帰着する」ことを唱えたのいが、あのアドルノであり、その元祖がマックスウェーバーであり、近代合理主義の病理を容赦なく糾弾した「ニーチェアン」だった。ただ、ウエーバーは単なるニーチェのエピゴーネン(無批判に踏襲する模倣者)ではなかった。
○ウエーバーが(概念の破壊者)ニーチェと決定的に袂を分かつのは、ギリギリのところで知的誠実さと学問的廉直を、論理方法的なルールにのっとって、世界観や価値の対立について「理性的」に確認しあえる「相対的合理性」を根幹に据えたことにある。
→このぎりぎりの「相対的合理性」こそが世界平和につながるんだと思いますが、この言葉自体私自身は全然理解していない(と思う)。なお、これをブッシュや金正日に教えてやりたいとも思う。ただ、私は、音楽を理解するためにこの本を読んでいるので気が楽だ(つまり「悩んでいない」ということ。済みません)。
○ウエーバーには、第一次世界大戦の制度化された科学と技術の応用(つまり、総力戦による過剰殺戮)を見て-知っての通り歴史はさらに繰り返すが、ニヒリズムへの転落に対する最後の塁(とりで)として、学問的な理性の立脚点を死守しようとする孤立の影が宿っている。
○そして、ウェーバーというか姜 尚中さんは、「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」の末尾をかざる幸福を見出した「最後の人々(未人)」は「現代アメリカ」にふさわしいと言っている。
○20世紀の最大の社会科学者と呼ばれるのは、ウェーバーが20世紀で生きたのは最初の20年に過ぎないにもかかわらず、新世紀のグローバル化した「後期近代」の強制合理化の病理に悩み続けていたから(というのが、姜 さんの評価)。
○ウェーバーが突出しているのは、「耐えがたい存在基盤から突然ベールを剥ぎ落とし、それを究極的な明知として意識化すべく強要する特定の状況」を自覚し、それを形而上学上のジャルゴンでなく、神学的なイデオロギーでもなく、経験的な歴史(=社会学)の研究を通じて明らかにしようとしたことである。これが宗教社会学として結実した。

え~と、覚書が「序論」で終わってしまった。マックスウェーバーの言葉は、第1章以降で、さらに面白くなる。それで、その2あります。
なお、あのベストセラー「悩む力」(私は読んでいない)は、このウェーバーを念頭に置いてい書いているのではないか。そろそろブックOFFで100円で売っていたら買って読んでみようかと。

●ヘンデル/シャコンヌ

この曲を聞くと、高校時代と大学時代が懐かしくよみがえる。特にゲタで電車通学していた高校時代の、具の無い"素そば"と具の無い"素カレー"を出していた暗い食堂の前の部室を思い出す。最初に、プレスティ&ラゴヤのギター二重奏をLPで聞いた時、私はスペイン物よりこちらのほうに感動した(かなりの人はファリャやグラナドスのピアノ曲の編曲に感動したようだ)。その後、だいぶ時間がたって、CDの時代になり山野楽器のCD3枚組復刻盤を購入したが、それを聞いて、その昔の感動が(急速に)色褪せたのを思い出す。その感覚はわたしの身近な人も同じなので、正しいと思う(くやしいが音感は私より多少良いので、一目おいています)。やはり、CDだと、その音域の制限のせいかなんかが違う。
  ★
U-tubeではプレスティ&ラゴヤのこの演奏は公開されていないようなので、ピアノの演奏を貼り付けておきます。この曲は、同時代ながらバッハやテレマンとは違った華麗さと憂いがある。なお、このU-tubeのマレイ・ペライア(1947年-)の演奏も素晴らしい。ただ、ちょっと物足りない気もする。これはなんだろうか、プレスティの神がかり的な演奏のイメージが残っているせいかもしれない・・・。今度、ハープシコードのさらに華麗な演奏を聞いてみたい。

・・・ということで。
読んだ音楽の本や聞いたCDについて、このブログに書いて、頭の整理をやっています。
ただ、(不精のせいか、というか書くより読むほうが多すぎて)PCに書き込む時間が取れていない。
以下は、多少手抜きですが、あしからず。

(ブログ4年目を振り返って)
今日は父の日。身近な人からは感謝の言葉があり、夕食はささやかながら豪華版だった。昨日、車で聞いたラジオの話。小さい子供に家族で好きな人の順番を聞いたら「お母さん、おばあちゃん、お兄ちゃん、犬、お父さん」の順だった。これには(一応)納得(もちろん1番は・・・)。
  ★
それで、父の日にちなんで、このブログについて少し振り返ってみた。
うれしいことは、平均して、毎日、アクセス者で約100人の方見ていただいてること(アクセス数は平均150ぐらい)。なんか判らないが元気が出る。少し前にはアクセス数(アクセス者ではない)がなんと400を超えることがあった。これは感激です(もうないだろう)。
  ★
このブログは、あくまで自分のためのメモとして書いています。それで、音楽と読書に興味がある方以外は、ぜひ忘れることをおすすめします。まったく(何の)役にも立ちません。逆に、ジャンルを問わず音楽興味がある方は大歓迎です。また、いろいろ教えていただけると感激です。なお、音楽と(音楽関連の)読書以外のようなことも書きますが、私にとって、それも音楽に関連していることなのです。そうそう、私の小さい頃の心の友であり且つ師であった”犬”が好きな方も大歓迎です。

(どうでも良いこと)
私のテリトリィの都営新宿線西大島に、地元の人の評判が良いおいしいお寿司屋さんがある。数年前に改装してから、その小さいながら簡素な雰囲気と、大将も物静かで、職人と言う感じが気に入っている。といっても、お目当ては土曜日もやっているお昼のランチ。¥900で海鮮丼、鉄火丼、¥1250で穴子丼)<--高いので食べたことはない)がある。
昨日、そのお寿司屋さんにボーナス記念で身近な人と行きました。そこでの痛恨の失敗の話です。
海鮮丼は、エビ、ホタテ、タコ、マグロ、サーモン、イクラ等が入っている。そして生姜と、どういうわけか沢庵が2切れ入っている。この沢庵ですが、結構自己主張する。なんとなく、最後に沢庵が残った。それを食べたのですが、店を出て口に残ったのはその沢庵の味。結局沢庵丼を食べた感じが残った。
(教訓)
海鮮丼の味を楽しむには、沢庵は早めに食べること。
それが生姜だと、海鮮丼の味を消さないのが不思議だ。

(最近購入して聞いたCD)
●バッハ:チェンバロ作品集(演奏、グスタフ・レオンハルト)
このCDは、リュート曲BWV996が入っている。この演奏を名手レオンハルト(1928年-)の弾くチェンバロ演奏で聞けるので購入。そしてBWV992も聞ける。
曲目は下記。
1半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
2旅立つ最愛の兄に思いを寄せるカプリッチョ変ロ長調 BWV992
3幻想曲とフーガ イ短調 BWV904
4組曲ホ短調 BWV996

西部戦線異状なし-レオンハルトこのCDを紹介しているブログを見ると「この名演(BWV996)を聞くとしばらくリュートが弾けなくなる」と書いてあった。そうかもしれないが、わたし違った。この演奏はいかにもチェンバロらしい演奏で、それはそれで素晴らしいが、ギター、リュートの演奏を聞きなれている耳では、全体としてすこし重い印象を受けた。ライブ演奏のせいもあるかもしれないが、それがチェンバロによるバッハだと言えば、それはそれで素晴らしいが、すこし違和感があった。これがBWV996だろうか・・・。プレリュード(すばらしい。ただ、プレリュードのチェンバロ的重さは良いが、その後のプレストはもうすこし軽くても良いのではないか)、アルマンド、サラバンド(そうか、そういう風に弾くのか)、ブーレ(繰り返しは装飾音で変化をつけている)、ジーク(う~ん。ちょっと重すぎる)。BWV996の中では、プレリュード、アルマンドが参考になった。ただ、レオンハルトは、バッハをいかにもバッハ的に弾いているような気もする。これが正統バッハ演奏なんだろうか・・・。ただ、ライナーノートを読んでいない(車の中に置いてきた)ので、それを読んで且つもう少し聞きこんでから改めて感想を書こうかと。

(追記)
お気に入りのogawa_jさんのバッハの手稿譜に関するブログ・シリーズ企画読み大変参考になりました。次のブログで手稿譜を基本から整理しておこうかと。また、「ピアニストが見たピアニスト-名演奏家の秘密とは」(青柳いずみこ)は読了。ところどころ書きとめたい名言がある。これも、このブログに書いておこう。そうそう「マックスウェーバーと近代」(姜 尚中)もだいぶ進んだ。こちらは、面白く読んだが、私のバックグラウンドの無さが理解を妨げている。「知識があれば、もっと理解できもっと面白いのに」という印象。

・・・ということで。
●素晴らしすぎて驚くこと西部戦線異状なし-バッハ自筆譜
私のお気に入りのブログogawa-Jさんの「私的CD評」で、長文の記事が3日連続で出ていた。
「バッハの初期のオルガン及び鍵盤楽器のための作品について」という記事です。その1、その2、その3まである。
その1をWordに貼り付けて打ち出したらA4で6枚あった。
その好奇心とエネルギーに驚きです。
文章を読むのは好きなので、まずその1とその2を打ち出し喫茶店で読んでみようかと。
(夕方、少し感想追記しようかと、・・・思いましたが実は打ち出した紙を外出に持っていくのを忘れてしまいました。今週の通勤途中に、喫茶店で読ませていただこうと思っています。)




●(どうでもよいが)不思議なこと
ogawa_jさんにインスパイアされ、(といってもレベルは極めて低いですが)下記について少し考えました。プロの方はさておき、私にとって"♯"が多い曲と"♭"が多い曲でどちらが弾き易いか。というと、断然前者です。
●B Major(ロ長調)
西部戦線異状なし-B major



●D-flat Major(変ニ長調)
西部戦線異状なし-D^flat Major



考えてみれば、当たり前のことです。なお、これは(アマチュアのへっぽこ)ギター弾きに限ったことと思いますが、楽譜をみると歴然です。ハイポジションは別として、D-flat Majorだと1弦(E弦)、2弦(B弦)、3弦(G弦)から弦が変わる(追記、この♭はギターのすべての開放弦に係わっている。これならいっそのこと半音上げたD-majiorのほうが弾き易い。ただ、転調を含む曲だと、そうはいかなくなるので、こういう調ができてしまう)。これが、いつもの感覚と違うので(かなり)弾き難い。私の場合、スコルダトゥーラ(変則調弦、と言っても大したものをやっていないのですが)の曲で、調弦法が変わっても、"♯"や"♭"で弦が変わらなければ大した違和感はない。ハイポジションならどうでもよいが、音域が低いほうになると、どうしても開放弦の調弦が関連してきて違和感がある。他の方はどうだろうか。これがピアノだとハイポジションといってもパターンは同じだし、気にならないと思う(他の苦労があると思いますが、うらやましい)。
  ★
なお、関連でHPを見ていたら、無伴奏バイオリンは「短短短短長長」の順。無伴奏のチェロ組曲は「長短長長短長」で、無伴奏のチェロ組曲の調性はシンメトリーになっているという記事を見ました。なお、無伴奏チェロにはすべてプレリュードが付いているが、無伴奏ヴァイオリンはプレリュードが無いというのは知っていて、なんでだろうかと思っていた。当時、まだ完成された楽器でなかった無伴奏のチェロ組曲をバッハがどういう意図で作曲したのだろうか。リュート曲のように、(ある意味では)鍵盤奏者の立場で(敬意を払いつつも適当に)作曲したのと違って、特別の意図があったのではないだろうか。それで(今頃になって)気がついたのですが、無伴奏のチェロ組曲でなんか不思議な印象を持つのが2番と5番の短調の曲(とくにプレリュード)です。昔は1番、3番(のプレリュードなど)を好きで弾いていましたが(6番は難しいので弾けない)、最近は2番、5番に興味があります。

●読んでいる本
いろいろ読みかけが多いのですが、下記を挙げておきます。
●ピアニストが見たピアニスト-名演奏家の秘密とは/青柳いずみこ
図書館から1カ月前に借り、1か月で半分強で止まっている。結構おもしろいのですが、やはり文庫本でないのでカバンに入れていないのでなかなか進まない。今日で呼んでしまおうかと。
感想は,気が向いたら後ほど書くことにして、とりあえず目次だけ挙げておきます。
○負をさらした人-リヒテル
○イリュージョニスト-ミケランジェリ
○ソロの孤独-アルゲリッチ
○燃えつきたスカルボ-フランソワ
○本物の音楽を求めて-バルビゼ

マルセイユ音楽院の院長バルビゼは青柳さんの先生だったようだ。青柳さんは、詳細な分析の中で、師匠の音楽に対する姿勢を温かく見ているのがわかる。
○貴公子と鬼神の間-ハイドシェック


・・・ということで。